「関ケ原の戦い」後の奥羽情勢を伝える「伊達政宗宛徳川家康書状」

伊達政宗宛徳川家康書状

読み下し文

鈴木七右衛門尉下り候
条、啓せしめ候。 仍って、 其の表
の様子并びに一書の
通り披見、其の意を得候。
然れば、来春仙道口へ
行かるべきの旨尤もに候。越
度無き様肝要候。委曲
彼の口上申すべく候。恐々謹言
 十二月十四日 家康(花押)

大崎少将殿

この書状は、慶長5(1600)年12月14日、徳川家康が伊達政宗に送ったものです。本館所蔵の田村家文書の中の一通で、有名な「関ケ原の戦い」に関連するものです。
「関ケ原の戦い」は、豊臣秀吉亡き後の政権をめぐる「天下分け目の戦い」といわれ、豊臣政権を存続させようとした石田三成(西軍)と政権奪取を目指した徳川家康(東軍)による天下を二分した戦争でした。勝ちを収めた家康はその後、江戸幕府を開きました。
奥羽では、伊達政宗(岩出山)が家康と、上杉景勝(会津)が三成と手を結びました。政宗は上杉氏との戦いに専念し、7月25日に景勝の支城であった白石城を落としました。そして、9月15日に「関ケ原の戦い」を迎えました。
その後も、政宗は景勝を討とうとしており、そのような時に出されたのがこの書状でした。
内容は「鈴木七右衛門(政宗の重臣で大坂の家康へ遣わされていた使者)が政宗のもとへ帰るので、家康の意向を伝える。奥羽の様子が伝わり納得した。来春仙道口(福島県中通地方、会津の上杉氏を指す)へ進攻しようという政宗の考えはもっともだと思う。戦に勝つことが重要だ。詳しくは七右衛門が口頭で話す」というものです。
降雪期を迎えて、会津攻めを翌6年春まで控えるという政宗の考えを家康が承認したのでした。結局、上杉氏との戦いは和議によって終結しました。
日付の下に「家康」の書名と花押(サインの略体)があります。あて名の「大崎少将」とは政宗のことです。

問い合わせ先

一関市博物館 TEL 0191-29-3180

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 (広報いちのせき平成20年3月1日号)