博物館だより22

千厩の画家が描いたふるさとの学校 白石隆一 「千厩小学校」

白石隆一が描いた千厩小学校

洋画家 白石隆一が描いた千厩小学校です。
この校舎は、明治37(1904)年に現在の千厩支所の位置に建てられ、昭和49(1974)年新築校舎に移転するまで使われました。
明治37(1904)年に生まれ、東磐井郡千厩町(現一関市千厩町)の白石家、屋号「構井屋」の跡継ぎとして育てられた隆一は、千厩尋常小学校を卒業後、旧制一関中学校に入学し、ここで絵に強く興味を持ちます。
18歳で上京して川端画学校で洋画を学び、昭和4(1929)年に卒業。翌々年から洋画家・清水良雄に師事します。画壇デビューは画学校時代の昭和3(1928)年。水彩画「田園初秋」で帝国美術院展覧会(帝展)へ初入選を果たしました。以降も帝展や光風会展で入選を重ね、昭和17(1942)年に光風会会員となりました。
東京で着実に歩を進める隆一でしたが、東京大空襲で自宅も作品も焼失してしまい、昭和20(1945)年5月から千厩で暮らし始めます。戦後の代表作を次々と生み出しますが、さらに画境を深めるためより刺激を受けようと、昭和29(1954)年に一関に移ります。精力的な制作に加え、後進の指導や美術啓蒙に尽くした隆一は、地元に基盤を置く実力画家として広く知られるようになりました。昭和40(1965)年の欧州旅行から戻ると、再び郷里千厩での生活に戻り、制作に情熱を傾けます。晩年は病と闘いながら絵を描き続け、昭和60(1985)年に80歳で死去しました。
隆一の描く魚は大変人気があり、「魚の画家」とも呼ばれました。しかし魚に限らず、風景や人物、花など、どんなモチーフも写実的に手堅く描く腕が彼にはありました。この「千厩小学校」校舎が建てられたのは、隆一生誕と同じ年。描かれたのは新築移転を控えた昭和48(1973)年です。自らと同じ70年の歳月を重ねてきた校舎と、校庭に集う子どもたちの姿を、隆一は軽やかなタッチで描いています。

通常は千厩小学校で展示保管していますが、7月4日からは博物館のテーマ展「ふるさとを愛した三人の洋画家」に展示します

(広報いちのせき 平成21年7月1日号)