時太鼓打(ときだいこうち)のつぶやき

一関居館の時の太鼓(一関市 長昌寺蔵)

今日日の皆さん、ちょいと見には気楽そうでがすが、太鼓打も辛え仕事でがっつぉぉ。
 私は「時太鼓打」の金左衛門と申します。同役の謙吾と養吉の3人で御居館の「時太鼓」を打っております。「時の太鼓」とも申すようでございますが、3人で番を交代しながら、自慢の「時太鼓櫓」に登って、二六時中、時が来れば太鼓を打つのでございます。一日の始まりは明六ツ(夜明け時)の太鼓から始まり、次いで朝五ツ、朝四ツ、昼九ツ(正午)、昼八ツ、夕七ツ、暮六ツ(日暮れ時)、夜五ツ、夜四ツ、暁九ツ(真夜中)、暁八ツ、暁七ツと12の時刻に毎時時を告げるのでございます。御居館の「御土圭の間」にある櫓時計によって、係が打つ時刻を知らせてくれますので、それに従って打つのでございます。手慣れた仕事でがすが、たまには間違いもおこるのでございます。
手前どもの間違いをお話しするのは他の二人にも悪いので、ちょいと気が引けますが随分昔の先輩の話をいたしましょう。今から40年も昔、文政の8年ごろのことでございます。時太鼓打に佐惣治というお人がおられて、8月の十五夜のころついつい太鼓を打つ時刻を遅らせてしまったのでございます。中秋の名月にみとれて我を忘れてしまったのでがすかねぇ。春のころにも打ち方が不都合だときついおしかりをいただいており、6月にも同じような失敗をして、罰金500文と罰として非番の時に辻番所で15日の番を命ぜられておりました。何カ月かで3度の落ち度となり、ついに20日の牢屋入りとなってしまったのでございます。これで随分と懲りたのですが、2年後にまた暁七ツの太鼓を打つのを忘れてしまい、またまた罰金500文と非番の時に会所の使番10日の処分をうけたのでございます。牢屋にまで入れたのに、もはや御上もお手上げといった始末のようであったそうでございます。ここまできますと、同業の私どもも言葉もござりえん。いい度胸といいますか、また何と申しましょうか…。ちなみにこのお方、次の年にも太鼓の打ち数を足りなく打って、御咎の上会所の使番を仰せつかっております。
ああ、春夏秋冬、嵐でも吹雪でも、夜中も明け方も太鼓を打だねぇばならねぇのでがす。
太鼓打は三人扶持の御扶持米をいただいております。一人扶持というのは年に1石8斗の玄米をいただくのでございます。玄米は六合摺といって1升の籾米を6合になるまで摺り上げたものでございます。これを三人扶持で5石4斗でございますが、月割りにして4斗5升ずつ八幡下御蔵でいただきます。私には母と女房、御城下の塩問屋に住み込み奉公しておる息子と嫁入り前の娘がございます。家の畑で豆や大根、葉物などをこしらえておりますが、かつかつの暮らしでがす。それでも、御城下に時を告げて、ひと様の暮らしの時々を引っ張る太鼓打の仕事はやめられねえのでござりす。
さて、実は去年、御家は仙台の御本家様に従い、須川を越えて秋田で戦をいたしましたが、武運つたなく負け戦でございました。殿様も御歳25歳でご隠居なされ、明治と改元されて天朝様の世の中となって、御家の行く末もどうなることかとお噂でございます。貞享3年から183年もの間御城下に毎日時を告げた「時太鼓」も、もしかしてという悪い予感がするのは私"わだくし">ひとりの思い過ごしでござりゃすぺがねぇ。

(広報いちのせき 平成21年9月1日号)