再現!?時の太鼓の時報

時の太鼓の打ち方の再現(写真提供:一関ケーブルネットワーク)

時の太鼓はどのように打たれたのでしょうか。江戸時代の実際の打ち方を復元することは史料的にはちょっと難しそうです。そこで、平安時代の法典である『延喜式』、江戸城や明治時代の事例を参考に再現!?に挑戦してみました。
まずは各データから。『延喜式』(陰陽寮)の打鼓規定には、子の刻と午の刻には9打、丑の刻と未の刻には8打、寅の刻と申の刻には7打、卯の刻と酉の刻には6打、辰の刻と戌の刻には5打、巳の刻と亥の刻には4打打つとあります。
信濃の高遠(長野県伊那市)で、時の太鼓が復旧した明治時代に毎日打っていた老人の打ち方は、「初めどーんどーんとゆるやかに打って、段々間がつまり音がほそくなり消えて少し時をおいて時間の数を打つのが常だった」といいます。明治の老人は、打ちはじめのならし打ちの後、6時・8時・10時といった当時(明治時代)の時刻の数を打ったのでした。
丹後の田辺(京都府舞鶴市)で、明治16(1883)年ごろ、藩校明倫館の跡に設立された明倫小学校で正午に打っていた時鼓は以下のようであったといいます。
はじめにならし打ちで、○(1打打って一呼吸)、○○○○○(5打打って一呼吸)、○○○(3打打って一呼吸)、○○○○○○○………(連打し徐々に音が小さくなり消える)と打ち、その後で、○○○○○○○○○○○○と12打。ならし打ちの後、当時(明治時代)の正午の時数を打ったわけです。この打ち方は高遠の明治の例と同じです。
江戸城では、太鼓を打つ際に側に大きな算顆(丸い数え札)を打鼓数の数だけ掛け、1打打つごとに1枚ずつ取りはずし、余りが2枚になれば連打して終了したといます。打鼓数を誤らないようにする工夫と、打鼓の終了を示す連打の動作でしょう。
なお、江戸時代以前の時刻制度は、現在とは違って12時制でした。時の呼称には十二支をあて(子の刻は真夜中、午の刻は正午)、また、『延喜式』の打鼓数から昼夜の九ツ時(真夜中と正午)・八ツ時・七ツ時・六ツ時(夜明けと日暮れ)・五ツ時・四ツ時と数字で呼ぶことが一般化しました。
こうした事例から、思い切って時の太鼓の打ち方を再現してみましょう。打ち手は一関の「時の太鼓顕彰会」会長柳橋信行さんにお願いしました。
渾身の気合をこめて、ならし打ちで、○(1打打って一呼吸)、○○○○○(5打打って一呼吸)、○○○(3打打って一呼吸)、○○○○○○○………(連打し徐々に音が小さくなり消える)と打ち、次いで、○○○………と12時制の時刻の数を打ち、最後の2打は連打して終わります。太鼓の側には算顆を打鼓数の数だけ掛けておき、太鼓打は1打打つごとに1枚ずつ取りはずし、余りが2枚になれば連打して終了します。
さらに、『延喜式』にのっとり門の開閉の打鼓も再現してみました。これは12打ずつ2度打ち、小音から段々に大音にして打ちます。
どうですか、江戸の音が聞こえましたか?

時の太鼓の再現ビデオは、企画展の開催期間中、博物館でご覧になれます。

(広報いちのせき 平成21年10月1日号)