陸前高田市から一関市に向かう国道343号陸前高田市矢作地区に掲げられた看板

空前の巨大地震から2カ月余り
沿岸の被災地では、がれきの撤去や仮設住宅の建設など復興への取り組みが進んでいます
強い揺れと直後に襲った大津波により奪われた、尊い命と幸せな暮らし
当市に隣接する陸前高田市には、被害にめげず復旧・復興に日々黙々と努力する人々がたくさんいます
「住民のために」生活に密着した情報を日刊の「広報臨時号」として届ける市職員
社屋や生産施設を流され、仲間を失ってもなお、当市を拠点に再生をかける老舗企業
復興へかける彼らの思いを、沿岸被災地の後方支援としてレポートします

 

 

 

 

けっぱる陸前高田
日刊広報りくぜんたかた

陸前高田市企画部協働推進室主事大和田智広さん(32)が、震災後の3月18日から毎日発行している広報紙「広報りくぜんたかた」。
「住民が必要としていること、問い合わせが多い内容に少しでも答えたかった」と震災から発行までの経緯を語る。

3月11日14時30分ごろ、大和田さんは落成した米崎保育園を取材するため市役所を出発した。
新しくなった保育園で園児らが喜ぶ笑顔を撮影しようなどと取材のプランを考えて公用車をスタートさせた直後の14時46分、あの巨大地震が発生―。
公用車を運転していた大和田さんは「車がパンクしたのでは」と感じたが、どうも様子が違うことに気づき、路肩に駐車。信じられないほどの揺れを感じ、とっさに「役所に戻らなければ」と車を引き返した。

大和田さんが市役所に戻ったのは、地震発生から10分後。
庁舎が倒壊する恐れがあるということで職員や来庁していた市民らが市役所から外に避難をしていた。
直後、「大津波警報発令」の一報。大和田さんは、災害対応の手順に従い、記録班として高田高校の裏の小高い場所へ向かった。すでに避難を急ぐ人たちで道路は渋滞していた。

道路から1キロほどの坂を上がって、やっとの思いで小高い場所へ到着。時間は15時15分だった。
「急坂をこんな短時間でよく登れたと思った」と話す大和田さんは、取材用の一眼レフカメラを手にした。
現場に到着したわずか8分後の15時23分、大和田さんは海岸の異変に気づいた。

来襲した大津波

陸前高田市の高田松原は、2キロにも及ぶ松林が有名で毎年、海水浴客でにぎわう同市を象徴する観光地。
その松林の切れ間から海水が入り始めていた。
「海が松林のため見えないために津波の被害を大きくしたかもしれない」と大和田さんは振り返る。
異変に気づいた15時23分から5分後、大和田さんは目の前で起きる信じられない光景を夢中でシャッターを切り、記録した。
300枚以上撮影したというその写真には、無残にも市街地を飲み込む黒い大津波の姿が記録されている。
写真の最後は、呆然としたのか彼の足と地面が数枚撮影されていた。
「もしかしたら職員がすべて亡くなったかもしれない」ととっさに感じたという。
地震発生からわずか50分足らずの出来事である。

大和田さんはその後、いったん市役所に戻る。
4階建ての庁舎は、その最上階まで津波に飲み込まれており、建っているのが不思議なほどの状態。庁舎の2階の時計は、津波に飲み込まれたであろう「15時36分」をさし、止まっていたという。

夕方までには自身の家族全員の無事が確認でき、ほっとしたのもつかの間、その夜から安否確認に訪れる人への対応など災害本部は、騒然とした状態だったという。
大和田さん自身は、震災から2~3日は避難所対応や安否確認情報の整理などを行ったというが、停電に加え文房具や紙類は、本部が置かれた給食センターのものがすべてで、事務処理はすべて手書きで行った。
安否確認はもちろんのこと、遺体の安置所、死亡届の提出先など住民から寄せられる問い合わせは日が経つにつれ、多岐にわたり、「いろいろな情報を何とかお知らせしなければ」と考え始めたという。

かろうじて倒壊は免れたものの津波に飲み込まれた陸前高田市庁舎災害対策本部に掲げられた横断幕に、陸前高田市全職員の決意が

極限状態の住民に情報を毎日届けたい

電気が回復した3月18日から、避難所となっている高田第一中学校の印刷機を使い、A3版両面刷りの「広報りくぜんたかた臨時号」を2500部発行。
自衛隊が運ぶ物資と合わせて避難所への配布を始めた。

臨時号第1号には、電気・ガスの復旧状況、物資の配布方法、安否確認方法、遺体安置所の場所など数日間の中で問い合わせの多い項目を掲載した。

この臨時号は極限状態の同市にあって貴重な情報源となっている。

住民にとっての貴重な情報源、日刊「広報りくぜんたかた臨時号」がれきの撤去を見守る住民

天国の同僚に支えられあふれる使命感

大和田さんは、自宅と車を失ったため、災害対策本部のある給食センターの2階にある資料室で寝泊りをしている。
部屋は6畳ほどの広さだが、ロッカーや書類が所狭しと置いてあり、実質3畳ほどのスペースで日中の業務、食事、睡眠をしている。
窮屈な場所での生活が影響したのか、地震発生の3日目には両ひざの裏にこぶができ、呼吸が苦しくなったといい、新聞でエコノミー症候群の怖さを知る。
それから意識して水分補給や体操などを行ったという。

毎日、午前5時45分に「必ず目が覚める」ようになったそうで、6時15分から7時30分まで広報の印刷を避難所となっている高田第一中で行い、朝食。
その後、日中の業務をこなす。
夜の9時ごろには翌日の原稿が出来上がり、上司の決裁をもらうのが午後11時ころ。
ときには翌日になることもあるという。
「この広報発行は絶対やめてはいけない」と使命感にあふれている。
「ここにいることで落ち着く。何かしていないといろいろなことを思い出す」と業務に励み、「体がよく持つと自分でも信じられない。天国の同僚たちが応援してくれているからだと思う」と今日もパソコンに向かい、情報を発信し続ける。

広報りくぜんたかたの編集を行う大和田さん寝食、仕事のほとんど全てがこの部屋で行われる

(取材日4月29日)

けっぱる陸前高田
新たな地で再起をかける老舗しょうゆ店

地震後の大津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市。
死者数、行方不明者数とも県内の自治体で最多。
同市の中心市街地は一面にわたりがれきで覆われ、現在、その撤去作業が行われている。
個人の住宅はもとより、企業の工場など同市の産業基盤を支えてきた施設も同様に壊滅的な被害を受けた。

しょうゆ店「株式会社八木澤商店」も社屋、醸造蔵、生産機器、原材料などすべての生産基盤を失った。
また、社員1人も亡くなり、住宅を失った社員も多くいる。

八木澤商店は、「ヤマセン」の愛称で、同市気仙町でしょうゆ、みその製造、販売までを行うしょうゆ店。
創業は、1807(文化4)年と200年余りの歴史を持つ老舗で同市を代表する企業である。

「八木澤は終わった。町もなくなった。何もかも終わった」と河野和義会長(66)は、同社のホームページに変わり果てた同社の状況を目の当たりにした時の感想を記している。
そんな絶望の中、河野会長の長男、通洋さん(37)は「必ず再建する。
だから社員は解雇しない。
会社も町も復興する」と強く決意。
父と再建方法について話し合い、再起をかけることを決め、それまで社長だった父が会長に就任し、自らが社長を引き継いだ。

始まった戦い

会社再建とはいうものの、まず行わなければならないのはしょうゆ、みそなどの商品の生産。
すべての生産基盤を失った同社には、自力での商品生産は不可能であった。
そこに秋田県の同業者からの「委託製造」の申し出。
自社で行っている製造方法などのレシピによりしょうゆ、みその生産の目途が立った。

次に考えなければならなかったのが、店舗をどうするか。
陸前高田市では、電気、水道などのライフラインがほとんど復旧していないため、市外に目を向けざるを得なかった。
できるだけ同市から遠くない場所で、いち早く営業を再開したいという思いから、大東町大原地区の空き工場を選んだ。
その空き工場を4月7日に借りることにし、商品と店舗が整ったと思った矢先、同日の深夜に発生した震度6弱の余震により、その工場は、「次の日におじゃましたら、天井から空が見えた」と河野社長が振り返るように大きな被害を受けていたため、借りることを断念。再開は振り出しに戻った。

そんな中、一関商工会議所大東支所から「摺沢に縫製会社だった空き工場がある」との情報が入り、さっそく現地に赴いた。
社員が勤務するスペースとしては申し分のない広さであり、即決。
「八木澤商店大東営業所」として営業再開にこぎつけた。

出発式で配送のトラックを見送る社員ら営業所開き出発式終了後、取材を受ける河野通洋社長(中央)と河野和義会長(左)

追い風を受けて

5月2日には、同営業所において「八木澤商店再開、営業所開き出発式」が行われた。
当日は、暴風警報が発令される風の強い日。
河野社長は式のあいさつで「この風は、わが社にとって必ず追い風になる。絶対に負けない」と営業所再開の決意を力強く語った。
同日は、しょうゆ、みそをトラック2台で盛岡、大船渡方面の飲食店へ配送する出発式も行われ、社員らは、本当に嬉しそうに笑顔で見送った。

河野社長は、被災から52日目での営業再開について「いろいろな人の支援に心から感謝している。社員がいないと今日が迎えられなかった」と振り返った。
同社に4月から採用された、ともに18歳の村上愛季さん、細谷理沙さんは、「営業再開となり、とにかくうれしい」、「これからいろいろと勉強して仕事を覚えていきたい」と感想を語ってくれた。

「我が社の社員は、いつでもみんな明るいです」と河野社長が言う通り、新採用の二人も笑顔で答えてくれた。

真剣なまなざしで研修を受ける新入社員いつでも社員が明るい理由の一つは、みんなで休憩し、何でも話すこととか

起きた奇跡―
見つかった経営理念

現在の取引は、震災前の10分の1程度。
おのずと業務量も減っているため、毎日、午後から業務に関する研修を商工会議所大東支所を会場に行っている。
全国各地から寄せられた激励の手紙やはがきへのお礼状を書いたり、品質表示についての法律や方法を学ぶなど研修科目も多岐にわたり、真剣な表情で社員らは研修を受講していた。

今後の同社の課題は、陸前高田市での本社の再建。
河野社長は「とにかく水のいい所に。水が変わると商品の味が変わる」と候補地の選定を急ぐ。
「販売はできるところから徐々にやっていきます」と現状を認識し、焦りはない。

大東営業所の玄関に同社の経営理念を記した若干汚れのあるボードが掲げられている。
このボードは、津波で会社から7キロ離れた海岸で見つかったという。
それも見つけたのが同社の社員。

八木澤商店の経営理念は、震災にも負けずこれからも受け継がれてゆく―。

大津波にさらわれたが、奇跡的に見つかった経営理念被災した社屋から見つけたしょうゆ。商品にはできないが、どうしても捨てられないという

「激震から2カ月 復興への思い」完

 (広報いちのせき 平成23年5月1日号)