少しずつできることをやればいい 病気が教えてくれた「愛情の絆」

「朝顔のたね」会長の遠藤育子さんは17年前に脳出血で倒れた夫芳春さんを看護する。
つらい時に支えてくれた、かけがえのない人たち。
感謝の気持ちをつないでいく。

95年11月12日、夜に鳴り響いた一本の電話。
医師の「覚悟して来てください」の言葉に遠藤育子さんは「やっぱり」と思った。

育子さんは73年、歯科医芳春さんの下へ嫁いだ。
それと同時に、芳春さんは千厩町千厩に遠藤歯科医院を開院。
歯医者が少なかった当時、育子さんも歯科衛生士の勉強をして夫婦二人三脚で営んだ。

芳春さんの日々の生活は過酷なものだった。
4時に起きて歯科技工の仕事をこなし、昼間は診療。
夜は会議や趣味のレース鳩の先生も務めた。
寝るのはいつも日をまたいでから。
土日もなく、朝から晩まで働いた。
医師仲間が心配しても「3時間も寝れば十分」と耳を傾けなかった。

芳春さんは、東京からの来客と乗ったタクシーの中で倒れた。
脳出血だった。
タクシーはそのまま一関病院へ。
病院に入ったのは分かるが、その後の意識はないという。

「これでやっといろいろなことから解放されるね。もう働かなくてもいいよ。あとは家族のために生きて」

育子さんはこれまでの苦労を思いやった。

出血は、橋(きょう)と呼ばれる中枢神経の中脳と延髄との間で、手術ができない箇所からだった。
治療は、血腫を防ぐための点滴しかできない。
自発呼吸が確認されたが、応答がないまま一週間近く経過。
後遺症が心配された。

目が開いても言葉が出なかった。
動かすということ全てができなくなった。
だが、くよくよしてはいられない。
相手が言うことは聞き取れる。
かすかに右手の小指が動く。
あいうえお表を使ってコミュニケーションを図った。
言葉は発せなくても、考えたり、理解したりできる。
昔のことも全部記憶している。

一関病院の脳外科で2カ月半を過ごした。
退院時、医師に「この状況で長生きした人はいない」と言われた。よくて7年とも。

共に49歳の冬だった。

96年2月、県立大東病院に転院。
リハビリ生活が始まる。
そこでは、体も心も癒やされるケアをしてもらった。
医師だけでなく掃除のおばちゃんまでもが患者を受け入れてくれる。
看護する方法も丁寧に教えてくれた。

次第に、動かなかったところが動いたり、つかめるようになったり。
言語指導も始まり、言葉にはならないが音になってきた。
少しずつ、少しずつリハビリの成果が現れてきた。

在宅介護に移行するために目標とした、ベッドから車いすへの移乗ができるようになるまでの6カ月間、入院によるリハビリが続いた。

退院後も週2回のリハビリに休まず通った。
通院しない日も動くこと全てがリハビリだと、毎日動き続けた。

育子さんは、余計なことは考えず、一日一日を大事に過ごした。
いや、考える暇もなく、その日を過すことで精一杯だった。
祖母、両親が次々と入退院を繰り返したのちに他界した。
大事な人がこうもいなくなるものか。
芳春さんが倒れて7年もたたないうちに身近で支えてくれた人たちがいなくなった。
それでも前に進むしかない。
2人の子供が力になってくれた。

芳春さんは、告げられた7年を生き延びた。
一人で寝返りをうてるようになった。
左手を動かして上げられるようにもなった。
身近な人とは会話だってできる。

長い道のりだった。
互いにどれだけ苦労をしてきたのか、計り知れない。

07年11月、芳春さんが肺炎を起こした。
熱が下がらず、寝ずの看病が一週間続いた。
食べられないし、おしっこも出ない状態。
それでも芳春さんは、涙を浮かべんばかりに「入院だけはさせないでくれ。このまま人生が終わってもいい。家にいさせてくれ」と訴えた。

しかし、育子さんは芳春さんを千厩病院に入院させた。
3週間後、無事に退院した。

その時、同室にいた他の患者は、動けず、話しもできない高齢者。
身寄りがないと言い、預けられた病院の苦労を目の当たりにした。
さらに、新築間もないきれいな病院だったが、一部の衛生面などが気になった。

病院に対してできることはないか。
入院の感想を伝えるとともに、歯科衛生士のノウハウもあるからと、尿器の掃除ボランティアを申し出た。
すると「そうじゃないんです。一番は医師不足です。どうしたら医師が集まる病院になるでしょうか」と投げ掛けられた。
住民が医師を連れてくることはできない。
住民としてできることは何か。
病院について知る機会を与えてもらい、「患者として協力できる患者になろう」と声を掛け始めた。

病院の中庭に植えられたアサガオが見事に咲いた09年の夏。
その時に採れた種を看護師長が病院のクリスマス会で「次は皆さんが家で咲かせてください」と渡してくれた。
何よりもその気持ちがうれしかった。

そして、10年1月19日、住民の医療に対するレベルを上げるために種をまいて育てる役をしたいと「朝顔のたね―千厩病院を守り隊―」を結成した。
芳春さんが倒れて今年で17年になる。

「介護は肉体的にも精神的にも大変。けどコミュニケーションできるし、冗談だって言ってくれる」と育子さん。
芳春さんを見つめる姿はきっと、昔から変わらない。
愛する人を想う乙女の姿だ。

「つらい時に煮物や味噌汁を届けてくれた近所の人たち、いつでも電話してと言ってくれる友達、病院のスタッフ、地域みんなの支えが私たちを助けてくれた」と感謝の気持ちであふれる。

倒れた当時、病気の性質として、座ることはできないと言われた。
座る姿勢がとれず、横になることが当たり前らしい。
しかし、それを覆して今がある。
目標がなければ頑張れない。
芳春さんは、娘の結婚式にも出席した。
夢は大きく、目標は小さく。
コツコツと積み重ねることで育てることができる。

アサガオの花言葉は「愛情の絆」。
地域の絆をつないで、地域医療を共に守っていく。

遠藤芳春さん、育子さん

愛しい人を想う気持ちは 今も変わらない これからもずっと

広報いちのせき「I-style」7月1日号