骨寺村の歴史

 
◇荘園のはじまり
 
 骨寺村の歴史は、中尊寺経蔵(きょうぞう)の初代別当である自在房蓮光(じざいぼうれんこう)が、往古の私領である骨寺を中尊寺経蔵に寄進したことにはじまります。天治3年(1126)のことです。蓮光は、藤原清衡の発願になる紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)の書写事業の奉行として、8年にわたって尽力し、この年書写を完成に導いたのです。その功によって彼は、紺紙金銀字交書一切経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任じられ、経蔵別当領として骨寺を治めることになります。以後、骨寺は、代々の経蔵別当によって治められ、中世末にいたります。
 
◇源頼朝と骨寺村
 
 文治5年(1189)、藤原氏4代泰衡が源頼朝によって討たれ、約100年にわたって奥州を支配してきた藤原氏が滅亡しました。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、中尊寺経蔵別当心蓮らは志波郡陣ヶ岡に宿営していた頼朝の下に参上して、中尊寺が清衡の草創で鳥羽法皇の御願寺であること、経蔵は紺紙金銀字交書一切経を納める特別厳重な霊場であることを説き、寺の存続と寺領の安堵を求めました。これに対して頼朝は即日にその存続を認めましたが、特に骨寺村については「経蔵領骨寺堺四至 東鎰懸(かぎかけ)、西山王窟、南岩井川、北峯山堂馬坂也」としてその四方の堺を定めた御奉免状を下されています。この結果、骨寺村は経蔵別当領として存続が認められることになりました。この事実は、その後、磐井郡以下五郡二保の地頭となった葛西氏との土地相論の中で大きな意味を持ってくることになります。
 
◇骨寺村の堺相論
 
 鎌倉時代の骨寺村について、磐井郡地頭の葛西氏と中尊寺との間で山野の帰属をめぐる堺相論があったことがわかっています。乾元2年(1303)に記された経蔵別当朝賢置文の中に、文治5年(1189)の源頼朝の下文が、骨寺村の堺相論(さかいそうろん)の際に幕府の法廷に提出されていたことをうかがわせる記述があります。相論の相手は、葛西氏と考えられます。骨寺村在家絵図もこうした堺相論の際の証拠文書として作成されたものです。
 
◇骨寺村の構成と貢納品
 
 村から中尊寺に年貢などの貢納を行っていたのは在家(ざいけ)といわれる農民です。文保2年(1318)の「骨寺村所出物日記」には、「四郎五郎田屋敷分」「平三太郎入道田屋敷分」など4家の「田屋敷分」と、「佐藤二郎作田分」「十郎入道父作田分」など10人の「作田分」が貢納品を負担する単位として記されています。「田屋敷分」はほぼ同額の所当籾(しょとうもみ)、口物(くちもつ)、節料(せちりょう)早初の白米と鰹、細々小成物(さいさいこなりもの)の銭などを負担しており、この村の中核をなす住人です。「作田分」は二百文から二貫文の銭だけを負担していて、村の正規の構成員にはなれない村外の人々、あるいは新しく住人となった人々だと思われます。貢納品には、上記の他に山畠の粟(あわ)、栗所(くりどころ)の干栗(ほしぐり)、歳末(さいまつ)の立木(たてぎ)なども見えます。骨寺村から中尊寺に貢納される品物はまことに多様で、この村の生産活動が水田の稲作だけでなく、山野をも舞台とする多彩なものであったことを物語っています。また、かなりの銭が貢納品に含まれており、貨幣の流通がこの村にも深く浸透していたことが明らかです。
 
◇荘園のおわり
 
 骨寺村は経蔵別当領として一村が一括して相伝されていましたが、鎌倉時代の終わり頃から、その中の土地の一部を分割して相続したり、売買したりするようになります。また、南北朝内乱の中で、葛西氏の家臣など周囲の国人が、兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)として村を治めることもあり、やがて荘園としての実質は失われるようになりました。中尊寺に残る骨寺村の関係文書は永享7年(1435)のものが最後です。ここからそう遠くない時期に、この村は中尊寺の荘園としての実質を失うことになったものと思われます。しかし、中尊寺とこの村の間の宗教的関係はその後も続いており、経蔵別当職を世襲していた中尊寺山内の大長寿院々主は、近代にいたるまで定期的にこの村を訪れ、法会(ほうえ)を営んでいたといいます。
 
◇骨寺村のその後
 
 安永4年(1775)に地元で書かれ、仙台藩に提出された「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」には、かつてこの村に本寺十郎左衛門という武士がいたことが記されています。骨寺が本寺といわれるようになるのは江戸時代のことと考えられますから、これは中世の事実ではありません。しかし、村の北の山には要害館といわれる小規模な山城の跡が残っており、その麓には要害屋敷という水田のなかに張り出した屋敷があります。戦国時代には、村の中に武装した土豪が住み、村が武装することもあったのでしょう。しかし、江戸時代に入るとともに骨寺は本寺と書き改められて五串村端郷(いつくしむらはごう)本寺となり、明治には厳美村、現在は一関市厳美町となりました。
 

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