蛇石の鳥居室根山は、海抜895.4メートル、北上山地の太平洋岸よりにあり、山裾は室根地域、大東地域、千厩地域、気仙郡にまたがっており、昔から三陸沿岸の漁師達は出漁の時いつも沖でこの山を目標にするといいます。

 古くは桔梗山、また卯辰山、また、鬼首山などと呼ばれていました。養老2年(718年)紀州の熊野から神霊を勧請された時、牟婁峯山と改められ、その後、安元元年平泉藤原秀衡が鎮守府将軍のころ室根山と改めたものといいます。

 8合目に室根神社があり、境内には県下の高山中唯一のものとされている千古の老杉が枝を交え、実に幽玄の聖地であり、真に悠久神代の天地に誘う森厳の台地です。

 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊冉命、新宮には、速玉男命と事解男命を祀っています。

室根神社本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから1287年前のことです。

 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。

 しかし、蝦夷は甚だ協力で容易にこれを征服することができなかっつたので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。

 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。

 天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5カ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。

 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津神神社)です。

 多賀城にいた鎮守府将軍大野東人は、白馬17騎の諸郷主を召集してこの神輿を出迎え勅使から天皇の勅書を受けた後、神輿にお供えしてきた公卿の宿所をつくり、神主に命じて塩でおそなえ物を清め、釜を据え湯の花を捧げて、どこの地に神様を祀るか神意を伺ったところ「磐井郡鬼首山(室根山)は、従古日本武尊が鬼神を征服し、始めて皇業が行われた地なので、この峯に鎮座して天下長久を守り、人民を利益せよ」とお告げがありました。

 それから行列をつくり、将軍大野東人が御先乗りとなって、勅使はみこしにつきそい、神主郷土が白馬でお供しました。紀州からお供した数百人が前後につらなり、鬼首山を目指して進みました。途中街道で「おりかべの翁」が五穀の飯を供え、それを共の人々に食べさせました。

 熊野神の行列を伝え聞いたおりかべの郷長今上速留は、おおいに喜んで郷民二十余人を引きつれお迎えし、みこしに供して森に入ったところ郷民百数人が集まって、笹を敷き、神を拝み、勅使を迎えました。この森を「ささふたぎ」と言うようになりました。

 これから進んで9月11日おりかべの郷につき、丸木の柱に松の葉で屋根を葺き、仮宮をつくり安置しました。このところを荒谷といいます。

 ここから鬼首山を踏み分けて登り、8合目に御社地を構え、神穀殿を造り仮宮から還宮しました。

 これから鬼首山を改め牟婁峯山と言うようになり、後世に室根山と書くようになりました。室根山に勧請されたのが、養老2年陰暦9月19日です。元年が閏年でその翌年の勧請があったところからその古例を守って閏年の翌年陰暦9月19日前後の日を大祭としています。

 この祭事は天平元年(729年)からの起源で1276年も前から行われ、嘉応年中(116~1170年)から祭礼がある毎に京都より勅使が下向しています。勧請のとき供奉の神士も土地に居住し、いまも別当館、公家館などの遺跡があり、その子孫と伝えられ一門と言われる系統の人が代々祭りに神役をつとめ、古例をたがえず守り伝えられています。このことは、おそらく他にみることのできない祭事です。