骨寺村荘園遺跡を構成する資産

 
◇山王窟(さんのうのいわや)と白山社(はくさんしゃ)  【どちらも国指定史跡】
 
 「在家絵図」の中央よりやや上(西)に瘤のような形で突き出した山には「山王石屋」という文字が見えます。「仏神絵図」では、右上の料紙の欠損部分に「山王」が描かれていたものと思われます。絵図の上方で「駒形根(栗駒山)」と「山王山」が対峙するような形で描かれていたのでしょう。「山王窟(さんのうのいわや)」の重要性が強調されています。「山王窟」の場所は国道342号線沿いの矢櫃ダムの北側、山王山の山中です。日吉山王神は天台宗の護法神で、比叡山の地主の神でもあります。日吉(ひえ)社の神人(じにん)は、その商業活動や高利貸活動を通して、天台宗の地方への広がりの尖兵の役割を果たしていました。その山王神を祀る山王窟が、村の奥の院ともいうべきところに配置されているのは、天台宗寺院中尊寺の寺領の中での山王神の役割の大きさを強調するものと考えられます。
 これと関連して、「白山」の文字が「仏神絵図」の道の突き当たり、「骨寺堂跡」の隣に書かれていることが注目されます。骨寺堂跡は今も所在が不明ですが、白山社は平泉野台地の先端に今も小さな祠として祀られています。「白山」は加賀国の白山比咩(しらやまひめ)神社のことです。中世には延暦寺の末寺となり、白山神人は日吉神人と一体となって、北陸道方面の山門の勢力拡大に活躍していました。骨寺村の白山社も、山王窟の日吉山王神とならび、天台宗の勢力がこの地域へ進出する一つの役割を果たしていたものと考えられます。

◇駒形根神社(こまがたねじんじゃ)  【国指定史跡】
 
 平野部西側に位置する台地を平泉野(へいせんの)といいます。江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」には、「平泉野には平泉の中尊寺、毛越寺の前身となる寺院があった」という内容の記述がありますが、真相は明らかではありません。しかし、平泉野には絵図に描かれた「骨寺堂跡」や「房舎跡」、「六所宮」などが存在したと考えられます。駒形根神社は、「仏神絵図」の六所宮、馬頭観音と描かれた周辺と考えられています。ここは石段を登った高台にあり、ここから望む東側一帯は中世以来営々と受け継がれてきた田園風景を感じさせます。

◇慈恵塚(じえづか)  【国指定史跡】
 
 本寺地区の北東端、隣接する山谷地区との堺をなす山稜上に、積み石で築かれた慈恵塚があります。慈恵塚は、鎌倉時代の仏教説話『撰集抄(せんじゅうしょう)』にある、女人に法華経を教えた慈恵大師のしゃれこうべを埋葬した場所と伝えられ、江戸時代には中尊寺がこの場所を管理していました。慈恵塚のある山の南麓には江戸時代以降に建てられた慈恵大師を祀っている大師堂があります。
◇若神子社(わかみこしゃ)  【国指定史跡】
 
 仏神絵図には「若神子神田二段」という記載と共に社殿の図像が描かれ、在家絵図中にも注記はありませんが若神子社と思われる社殿が描かれています。場所は平野部の東側寄りで、周囲は一面に水田が広がり、小区画水田も多く残されています。現在、社殿はありませんが高い樹木が水田の中に独立した姿で遠望でき、その下には石祠が祀られています。絵図によれば社殿の北側を馬坂新道が通っていたようです。「ワカ」「ミコ」ともに巫女のことで、もとは口寄せを行う巫女がまつる神社でした。

◇不動窟(ふどうのいわや)  【国指定史跡】
 
 「在家絵図」では東北の山麓に「不動石屋」の文字が見え、北側山稜中腹の竹藪の中にその石窟があります。奥行きが約11mある窟の途中の壁両側には、いつの頃かは不明ながらも扉があった痕跡を見つけることができます。慈恵塚から金峯山(きんぷせん)に向かう道筋沿いに位置し、宗教的な施設の一つだったことが窺えます。江戸時代にあってもなお中尊寺の子院が別当として結びつきの名残を留め、信仰が続いていたことを示しています。

◇伝ミタケ堂跡(でんみたけどうあと)  【国指定史跡】
 
 「仏神絵図」にある「金峯山」は、もともとは奈良県の吉野山から大峰山までの一帯の通称で、蔵王権現を祀る山岳信仰の聖地のことです。「キンプセン」と訓ずるのがふつうです。11世紀以後、この蔵王権現の信仰が各地に伝えられ、日本全国に「金峰山」が生まれました。本寺では今でも絵図の「金峰山」にあたる村の北西の山を、ミタケドウと呼んでいます。金峯山は「カネノミタケ」ともいいますから、そこにある御堂すなわち「峯山堂」が「ミタケドウ」です。『吾妻鏡』に見られる、源頼朝が定めたという骨寺村の四至にも「北峯山堂馬坂(みたけどうまさか)也」として登場します。しかし、「在家絵図」では「ミタケアト」と表記され、建物の柱跡あるいは礎石と思われる図像が描かれています。「ミタケアト」は「峯山堂(ミタケドウ)跡」の意味なのでしょう。絵図が描かれた鎌倉時代の後半には、骨寺堂と同様に、峯山堂も退転していたと考えられます。現在、地元ではこの山そのものを「ミタケドウ」と言っています。退転した御堂の記憶が山そのものをさすようになったのでしょう。なお金峰山は平泉の毛越寺の鎮守としても見えます。やはり天台宗の信仰とともに流入したものと考えられます。

◇中澤(なかざわ)
 
 「仏神絵図」の中央に「檜山川」「道」「中澤」と記された三本の線があります。「檜山川」は現在の本寺川、「道」は現在でも地元で「中道(なかみち)」と呼ばれている道と考えられ、これが中世の本寺への主要な進入路です。左端の「中澤」は、現在の国道342号と中道の間の低地です。現在はほぼ水田になっていますが、「在家絵図」の段階では、沢の源頭のところだけが水田で、あとは沢であったことが分かります。どのようなところから水田が拓かれていくのかを知ることができます。

◇梅木田遺跡(うめのきだいせき)  【国指定史跡】
 
 発掘調査によって、「伝ミタケ堂跡」の南西の緩斜面から、直径が1mに及ぶ柱穴が並んで見つかりました。柱と柱の間隔は2.4mと広く、平泉で見つかる12~13世紀の建物の柱間と同じであり、そこから平安末期から鎌倉期の遺構ではないかと推定されています。この場所は、「在家絵図」で12に区画された長方形の水田と、ひときわ立派な建物が描かれている付近にあたり、大型の建物跡は荘園経営のための重要施設であった可能性があります。

◇遠西遺跡(とおにしいせき)  【国指定史跡】
 
 北側の山の麓、平地より一段高い場所にある緩斜面で、発掘調査によって12~13世紀のかわらけ片と常滑焼(とこなめやき)の三筋壺(さんきんこ)の底部が出土し、荘園時代の生活の跡と考えられています。かわらけは宴会などで一度だけ使われる素焼きの器で、平泉遺跡群から大量に出土する土器です。また、常滑焼の三筋壺は愛知県の常滑地域で作られた陶器で、平泉文化圏ではよく出土する陶器です。平泉との関係を強くうかがわせる資料です。

◇要害館跡(ようがいだてあと)  【国指定史跡】
 
 要害館跡は北側の山のほぼ中央部にあり、眼下に骨寺村を一望できる場所に築かれた小規模な中世の山城です。東西の沢に挟まれた山頂部平坦面を中心とし、尾根筋を切る空堀や帯曲輪状(おびぐるわじょう)の平場が残っています。戦国時代に葛西氏配下の在地の土豪が築いたものと思われます。麓には平地に張り出した形の要害ヤシキが存在し、要害館はこれとセットで機能していた可能性があります。仙台藩の「風土記御用書出」には本寺十郎左衛門なる人物の名が挙げられていますが詳細は不明です。荘園の終末を示す遺跡です。

◇鎰懸(かぎかけ)
 
 「在家絵図」の東の端に「鎰懸」という文字が見えます。また、『吾妻鏡』文治五年九月十日条で骨寺の東西南北の四至を記したところに「東鎰懸」の表記が見えます。鎰懸とは、北奥羽の民俗に広く見られるもので、境界の地に立っている巨樹に、二叉になっている木の枝を投げかけて占いをする行為、あるいはその対象となる巨樹のことをいいます。相愛の男女がこれを行って、投げあげた木の枝が巨樹の枝にかかれば、その二人は結ばれるのだといいます。本来は山野の境界を画定するための神事に由来するものと考えられます。骨寺村の鎰懸の場所は、今はもう特定できませんが、骨寺からの道が磐井川北岸の崖状のところを通って隣村にいたる途中にあったものと思われ、そこが骨寺村の東の入り口だったのです。比較的近年まで北奥羽で観察されていた民俗が、中世に遡ることが分かる、興味深い事実です。

 


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