博物館だより

中尊寺と骨寺村のつながりを示す文書 「中尊寺経蔵別当職補任状案」

中尊寺経蔵別当職補任状案(複製) 原史料中尊寺蔵 天治3(1126)年3月24日、中尊寺で盛大な落慶法要が営まれました。その時藤原清衡が読み上げた供養願文が中尊寺に伝わっていて、その中に次の一文が見えます。「二階瓦葺経蔵一宇、金銀泥一切経一部を奉納す。等身皆金色文殊師利尊像一体を安置し奉る」。清衡発願の金銀字経を納める経蔵は、中尊寺にとって「事において厳重の霊場」(『吾妻鏡』)でした。そして法要の翌日清衡からこの経蔵の別当(統括)職に任命されたのが自在房蓮光でした。ここに紹介する文書は、その補任状(任命書)とされるものの案文(控えまたは写し)です。
 この中には興味深い内容がいくつか含まれています。まず中尊寺が鳥羽法皇(1103~1156)の御願寺であること、経蔵には岩井郡の骨寺(市内本寺地区)ほかの所領があり、そのうち骨寺の田畑をもって正月の法会、春秋彼岸の法要、毎月の文殊講の費用に充てることなどが記されています。そして後半部では、蓮光が金銀字経の奉行として8カ年で書写し、その功と器量によって蓮光を経蔵別当職に任命すること、蓮光の私領だった骨寺を蓮光が経蔵に寄進したことにより、永代にわたって蓮光相伝(代々受け継ぐこと)に任せることが清衡の名とともに明記されています。
 この文書により、お経の書写期間、初代別当名、経蔵別当領の成立過程など重要な事柄を知ることができます。ただし、この文書には当時には用いられなかった字句や文章表現などがあり、疑問がないわけではありません。しかし、鎌倉時代以降、この文書は「御館(清衡)の 下知状」と呼ばれて中尊寺に大切に伝えられてきました。現在は重要文化財に指定されています。

(広報いちのせき平成19年6月15日号)