釣山より撮影した水没した一関。右手は一関町、左手は山目、右奥は束稲山(カスリン台風)

東北本線の線路上に流木の山(アイオン台風)地主町中央部。小・中学生も復興に努めました(アイオン台風)磐井橋地主町側、水天宮前の大ケヤキ(左奥)は47名の命を救いました(アイオン台風)

市の中央部を滔々と流れる大河、北上川。
古くから、大きな恵みと恐ろしい水害の両方をわたしたちにもたらしてきました。
昭和22年のカスリン台風、同23年のアイオン台風により、一関地方は2年連続して大水害に見舞われ、多くの尊い命を失うなど未曾有の損害を被りました。
今年はそれから60年の節目の年。
その記憶を風化させることなく後世に伝え、災害に強いまちをみんなでつくる。
それが、今を生きるわたしたちの使命です。

記憶を語る

まるで、掴まるところのないジェットコースターに乗っているかのようでした

小岩眞さん アイオン台風の来た昭和23年、わたしは中学1年生で、鍛治町(現中央町)の磐井橋のたもとに家族8人で住んでいました。家は商売が忙しく、わたしはいつも磐井川で遊んだものでした。
 数日前から強い雨が降ったり止んだりして、9月16日は朝学校に行ったものの、すぐに帰されました。家からでも「ゴーゴー」という音がはっきり聞こえるようになった午後5時ごろ、母に言われて川を見に行くと、茶色い水がころがるように流れていました。上流からたくさんの木が流れてきて、磐井橋は地震のように揺れていました。まるで何千頭もの野牛が突進してくるようで、前年のカスリン台風とは全く違いました。家族全員で、米俵や味噌こがなどを苦労して2階に運びました。当時大切なのは食べ物だったのでしょう。その後疲れた身体を休めていると、2階の床板や畳が浮き上がり水があふれてきました。たぶん午後7時ごろです。台所の屋根を伝わって母屋の屋根上に集まると、ほかの家が流れていく様子がシルエットで見えました。女性が「助けてくれ」と叫んでいましたが、磐井橋に建物がめり込むごう音の後は声が聞こえなくなりました。
 知らぬ間に家が動き出しました。地主町の火災で突然あたりが明るくなり、同じ屋根の上にいる近所の人や家族の表情がよく見えました。あきらめ顔の人もいましたが、自分は何としても生き残ると子どもながらに思いました。家は回りながら川の本流に入り、だんだんつかまるものが小さくなって、ついに家族と別れ父と二人になりました。
 東北本線の黒々とした鉄橋が見えてきました。その下をくぐるとすぐ下流で2、3回巨大な波に翻弄され、もうだめかと思いました。掴まるところのないジェットコースターに乗っているようでした。下之橋に近づくころには流れがゆるやかになり、大きな針葉樹に漂着しました。そこには家の残がいや流木などが複雑に積み重なっており、わたしはその中にはまって身動きができず、腰から下は水の中でした。寒さと眠気が襲ってきて、気が付くと父と一緒に舟の上に助け出されていました。
 結局、祖母、母、妹二人を失いました。
 二つの台風は、一関の運命を変えた天災でした。戦時中に山の木を切り尽くしたため、人災だという人もいます。
 現在はあいぽーとのボランティアガイドを務め、機会があれば水害体験を話すこともあります。今は水の怖さを知らない若い人が増えて、水害に無関心な人が多いような気がします。日常からハザードマップを見ながら避難経路を確認するなど、備えは大切なことだと思っています。

小岩眞さん(71)
磐井川の山目側、磐井橋のたもとに住んでいた小学6年から2年続きでカスリン・アイオン台風を体験。現在はあいぽーとのボランティアガイドを務める。中央町。

助け出された瞬間に足元の木が流れていって

千田きや子さん アイオン台風の時は、山目花川戸(現中央町)の信夫楼で子守りをしていました。秋葉家10人、親戚一人、姐さん4人とわたしが住んでいました。
 水が1階のガラス戸を壊し座敷に入ってきて、2階に駆け上がりました。そのうち天井が落ち、電気が消えて真っ暗になり、わたしは下駄箱につかまり浮いていました。明かりをたよりに上がっていくと足に人の髪の毛が触り、その人を引き上げ一緒に逃げました。気がつくと水天宮の大木の下で、磐井橋に詰まっていた流木の上を歩いて山目側に渡りました。目の前の木々が橋の下に吸い込まれ、次は自分たちかと思っていると「誰かいないか」の声。助け出された瞬間、さっきまであった木が流されていったのでした。
 秋葉家の人は全員亡くなり、姐さん一人、親戚とわたしだけが生き残りました。
 あれから60年。今でも位牌と衣類をリュックに詰め、いつでも逃げられるようにと準備をしています。

千田きや子さん(83)
アイオン台風で流され、磐井橋付近で救出された。中央町。

北上川とその水害史

二度の台風の惨劇から一関遊水地が整備 水害のないまちづくりを目指す

 有史以来、北上川は豊かな自然の恵みと恐ろしい水害の両方を、流域にもたらしてきました。古代、北上川流域は「日高見国」と呼ばれました。文治5(1189)年に書かれた「吾妻鏡」に初めて、「北上川」の名称が登場します。
 その中流の一関地方は、昔から有名な水害常襲地帯でした。狐禅寺付近から宮城県境にかけて、約26キロにも及ぶ川幅の狭くなった部分(狭さく部)があり、さらにはこう配がゆるく、流下能力は上流区間に比べて極端に小さいため、この区間で流しきれない水が、この地域にあふれ出すのです。
 北上川の治水史は、江戸時代、川村孫兵衛が手がけた下流部の北上川本川、旧迫川、江合川3川の付け替え工事にさかのぼります。明治43年9月、流域を大洪水が襲ったことをきっかけに、国の直轄による治水事業が始まりました。
 こうした中、戦後まもない昭和22年9月にカスリン台風が、23年9月にアイオン台風が一関地方を直撃。多くの死者・行方不明者を出す未曾有の大災害に見舞われました。
 これらの被害を受けて北上川の治水が根本から見直され、28年、北上川特定地域総合開発計画が策定されました。この計画に基づいて、五大ダムの整備と、水害常襲地帯である一関地方の河川改修が着手されました。
 一関地域の中心部を流れる磐井川は25年、市街地を流れる川幅を約3倍に拡幅するとともに、堤防の護岸工事を年次計画で進めました。
 47年、北上川の洪水を防ぐための一関遊水地が計画されました。100年に一度の確率で起こる洪水に耐えられる設計で、大洪水の時は周囲堤により、市街地を水害から守ります。現在も工事は継続していますが、平成10年8月、14年7月の洪水では、農作物の被害はあったものの市街地への浸水を防ぐなど、その効果が現れています。
 また、14年7月の6号台風による大雨では、北上川狐禅寺で戦後3番目の水位となる13.51メートルを記録。このとき、砂鉄川流域の東山町、川崎町の堤防未整備区間などで川がはんらんし、大きな被害を受けました。この被害を受け、築堤、橋りょう架け替えなどの砂鉄川緊急治水対策事業が20年3月の完成を目指して行われています。

             

養老4(720)年 「日本書紀」で北上川流域が「日高見国」と呼ばれる
文治5(1189)年 「吾妻鏡」に「北上川」の名称が登場
明治43年 8月、9月に大洪水を契機に国の直轄事業による治水事業が着手された
昭和22年 9月15日、カスリン台風が一関を襲い、磐井川がはんらん。北上川狐禅寺の最高水位17.58メートル、死者・行方不明者100人の大惨事に
昭和23年 9月16日、アイオン台風が一関を襲い、磐井川は再びはんらん。北上川狐禅寺の最高水位15.58メートル、死者・行方不明者473人と前年を越す大惨事に
昭和28年 「北上川特定地域総合開発計画」が策定。五大ダム(四十四田、御所、田瀬、湯田、石淵)の整備とともに、一関、平泉の河川改修に着手
昭和47年 北上川治水事業計画(一関遊水地素案、補償方針を含む)発表
昭和55年 一関遊水地起工式
昭和56年 8月の15号台風で一関地域を中心に大きな被害。北上川狐禅寺の最高水位は12.5メートル
平成14年 7月の6号台風で北上川狐禅寺の最高水位13.51メートルと戦後3番目を記録。砂鉄川を中心に大きな被害
平成18年 11月、一関遊水地第1小堤着工
平成19年 7月、一関遊水地第2・第3小堤着工
平成19年 9月17日、大雨洪水警報発令に伴う災害。北上川狐禅寺の最高水位は12.18メートル                                                                             

カスリン台風の被害

最高水位の大町角、現一関信用金庫地主町支店 

 昭和22年9月、カスリン台風は秋雨前線を刺激し、県内は12日から豪雨となり、15日に最も激しく降りました。一関観測所の総雨量(11日~15日)224.3ミリメートルを記録。15日夕から磐井川両側の堤防が破れてはんらんし、一関地域ではで山目の花川戸、川原田(現在の青葉一・二丁目、中央町)などを中心に死者100人の大惨事となりました。
 北上川狐禅寺の最高水位は16日午後5時、17.58メートルに。現在までで最も高い記録です。
 その模様は、一関市史で「山地渓谷から大量の水がどっと押し寄せ、しかも夜間の増水が著しく、そのため各地に道路橋りょうの決壊個所を生じ、人畜の被害、家屋の流失倒壊、耕作物の被害等まことに甚大」と描かれています。

アイオン台風の被害

濁流で引きちぎられた上の橋肉親の遺骨・位牌を手にした少女たち

 カスリン台風の1年後、昭和23年9月15日の夜から降り出した雨は、16日午後から豪雨となって夜半まで降り続きました。磐井川は夕方、急激に増水。上流から大量の土砂・流木を含んだ濁流が押し寄せ、カスリン台風で崩壊したままの上の橋や磐井川堤防を再び破壊して、市街地に流れ込みました。はんらんした濁流は北上川本流と合流後、午後9時ごろ再び市街地に逆流。一関地域での死者・行方不明者は473人にのぼり、カスリン台風をはるかに上回る犠牲者を出しました。
 北上川狐禅寺の最高水位は15.58メートル、一関観測所の総雨量(15日~17日)は403.2ミリメートルを記録しました。                                   

一関遊水地事業

平成14年6号台風による水害で冠水した一関遊水地

 一関遊水地は山目、中里、舞川地区と平泉町にまたがる面積1450ha。周囲堤と小堤からなる二線堤方式を採用し、第1から第3の3つの遊水地で構成されています。洪水調節、市街地などの水害防御、遊水地内の土地利用―を目的に、普段は農耕地として土地を利活用し、中小規模の洪水の際は小堤により遊水地内への水害を防御。大洪水のときは遊水地内で洪水調節を行い、周囲堤によって市街地への水害を守ります。
 築堤総延長は28キロ。本堤は高さ29.9メートルで、カスリン・アイオン台風級の洪水も防ぐことができる規模。小堤は高さ23.9~26.6メートルで、おおむね10年に一度規模の洪水を防ぐことができるように計画されています。
 総事業費は2700億円(平成7年改定)の巨大プロジェクト。周囲堤の進ちょく率は約9割で、昨年から小堤工事に着工。平成30年代の完成を目標としています。     

磐井川堤防の桜並木

磐井川堤防の桜並木

 磐井川河川公園堤防には、カスリン・アイオン台風の後、復興への願いを込めてソメイヨシノ100本が植えられました。その桜は今では大きく成長し、市を代表する桜の名所になり、磐井川の両岸をまたぐように泳ぐこいのぼりとともに目を楽しませてくれます。

砂鉄川で甚大な被害

砂鉄川での莫大な被害

 北上川狐禅寺で13.51メートルと戦後3番目の水位を記録した平成14年7月の6号台風。東山町、川崎町の砂鉄川流域で床上浸水743戸、床下浸水222戸、JR大船渡線の長期運休など大きな被害を受けました。
 このことにより国・県・市が連携し、上下流一貫した砂鉄川緊急治水対策事業を行っています。築堤、排水ひ門、橋りょう架け替えなど総工費約163億円をかけ、20年3月の完成予定となっています。

 

【参考図書】
■カスリン・アイオン台風50年記録写真集/カスリン・アイオン台風50年事業実行委員会
■写真記録集一関の年輪Ⅱ20世紀の一関/一関の年輪刊行委員会
■一関遊水地事業/国土交通省岩手河川国道事務所
■一関水害写真集大洪水/磐井川堤防補強促進協議会

※この特集で用いたカスリン・アイオン台風の写真は、故横田實さんが収集したものです   

60年目を振り返る

数多くの市民が参加して60年治水大会などを実施 防災から“減災”へ

達増知事ら5人がパネラーとして災害に強い地域社会について討論した防災・減災フォーラム

水難物故者供養に演じられた毛越寺延年の舞(60年治水大会)2組に感謝状を贈呈(60年治水大会)防災コンテスト2007で双方向の河川情報システム「アイ・MAP」を発表した一関工業高土木科

 水害被害を風化させることなく後世に伝え、災害に強い地域社会を作っていこうと「カスリン・アイオン台風60年事業実行委員会」(実行委員長・浅井市長)が3月23日、組織されました。市、国、県をはじめ、一関商工会議所、NPO法人北上川サポート協会、みんなでミュージカル実行委員会など、行政、川に関係する市民団体など18団体で構成。60年行事や関連行事として、さまざまな催しを市内外で行っています。
 そのメーン行事として、「カスリン・アイオン台風60年治水大会」「とうほく★地域を守る防災コンテスト2007」「市民ミュージカル『今伝えよう一関の年輪』」がそれぞれ行われました。
 「カスリン・アイオン台風60年治水大会~防災・減災対策を考える~」は9月15日、ベリーノホテル一関で行われました。「防災・減災フォーラム」(国土交通省東北地方整備局主催)と「カスリン・アイオン台風60年治水大会」(同実行委員会主催)の2部構成で催された大会に市民、関係機関などから約800人が参加。水害の悲劇を後世に伝え、地域防災力向上と治水対策の早期整備に取り組んでいくことを誓いました。
 平山健一岩手大学長をコーディネーターとするフォーラムには達増拓也県知事をはじめ5人のパネリストが参加し、災害に強い地域社会を構築するための方策について意見を交わしました。
 達増知事は「防災教育、自主防災組織による地域防災力向上が大切」と強調。浅井市長は自身の水害体験を振り返りながら「本庁・支所の連携を図り災害に対する機能の強化を進めていく」ときっぱり語り、門松武国土交通省河川局長は地球温暖化による集中豪雨の増加、水防体制の弱体化により社会が災害に弱い構造になっていると指摘しながら「被害ゼロの“防災”でなく、被害を小さくする“減災”に考えを改めなければならない」と主張しました。佐藤晄僖一関商工会議所副会頭は「磐井川堤防改修を、単に治水だけでなく、新たな地域づくりのチャンスととらえ、100年後を見据えた中心市街地整備の契機としたい」と力強く述べ、首藤伸夫日本大学大学院教授は「水との付き合いは、昔は自助が基本だった。都市化とともに公助に頼るようになったが、これからは共助が大切」と訴えました。
 60年治水大会では浅井市長が「あの大災害を繰り返すことのないよう治水事業や防災、減災に努めていく」とあいさつ。災害体験を伝える活動に貢献した故横田實さんと「みんなでミュージカル実行委員会」に感謝状が贈られたほか、水害の体験談の発表、安全・安心に向けた次世代へのメッセージが読み上げられました。
 9月16日、一関文化センターで行われた「とうほく★地域を守る防災コンテスト2007」には市内3団体を含む11団体が参加。そのうち一関工業高土木科の「河川情報マップ『アイ・MAP』」が防災力アップ賞に輝きました。         

市水防訓練

関遊水地周囲堤で行われた水防訓練

 6月2日、大規模水害を想定し、水防隊、関係機関、自主防災組織の連携の下に一関遊水地周囲堤で行われた水防訓練。北上川下流の石巻市でも同日訓練が行われ、両市長がテレビを通じてメッセージを交換し、水防体制の充実強化を確認しました。

遊水地小堤着工式

遊水地小堤着工式

 水害常襲地帯の一関地方を水害から守ろうと昭和47年着工した一関遊水地。10年に一度程度規模の水害から農地を守るための第2・第3小堤着工式は7月31日行われ、関係者が工事開始を祝いました。

一関夏まつり

6年ぶりに行われた水天宮神輿の川渡し渡御

 水難物故者の慰霊を起源の一つとする一関夏まつり。今年のフィナーレとして8月5日、6年ぶりに水天宮神輿の川渡し渡御が行われました。神輿は夕陽を浴びながら威勢よく磐井川を渡り、詰め掛けた見物客から拍手が寄せられました。

浸水表示板除幕式

浸水表示板除幕式

 カスリン、アイオン台風による水害の水位を示す浸水表示板がJR一ノ関駅の駅前広場に設置され、8月20日、除幕式が行われました。カスリン・アイオン台風60年事業実行委員会が行ったもので、市民に水害の恐ろしさや復興への努力を伝えようとするもの。関係者約30人が出席した除幕式で、浅井市長は「表示板の設置を通じ、水害から復興を遂げた先人の勇気と努力を忘れないための道しるべとしたい」とあいさつしました。
 表示板は高さ3メートル、幅1.1メートル。同じものが駅東口にも設置されたほか、市内9カ所に水位を表示するプレートが取り付けられました。

砂鉄川一握築堤

砂鉄川で実施された一握築堤

 砂鉄川堤防の概成を記念した河川愛護活動「水害を忘れない地域活動」は7月22日、川崎町の砂鉄川坂田排水ひ門付近で行われました。流域の住民ら約60人が参加し、河川敷の清掃、草刈りと桜の植樹を行いました。
 その後、「一握築堤」を実施。参加者一人一人が、スコップ1杯程度の土を堤防に運んで敷きならし、治水への思いを新たにしていました。
 現在、堤防の高さは暫定高の23.8メートル(完成高は25.8メートル)。伊藤靖一砂鉄川土地利用組合長は「たくさんの方々の協力で立派な堤防が築かれた。水害を風化させないよう後世に伝えていきたい」と話していました。

北上川流域一斉清掃

北上川流域で行われた一斉清掃活動

 川に関心を高め、水害被害の歴史を風化させず次世代につなごうと、県内の北上川流域で5月19日、一斉に清掃活動が行われました。市内では川崎町と狐禅寺で実施。川崎町ではボランティア120人が小雨の中、力を合わせてごみを拾いました。

かわさき夏まつり花火大会

かわさき夏まつり花火大会

 夏の夜空と川面を彩るかわさき夏まつり花火大会(8月16日)。カスリン・アイオン台風60年事業実行委員会提供花火を含む1万発が打ち上げられ、川岸に「カスリン60年」の文字も炎で描かれ、犠牲者を弔いました。 

流灯会・夢灯り

500個のキャンドルが灯された夢灯り大会

 水難物故者や初盆を迎えた故人をしのぶ流灯会は8月20日、磐井川河川公園で行われました。一関夢灯りの会主催の夢灯り大会も行われ、災害のないまちを願って灯された約500個のキャンドルが幻想的な光景を作り出しました。

    

体験を伝える

大成功の市民ミュージカル 力強い歌声にのせて あの体験を多くの人の心に届ける

 カスリン台風の大被害から60年が経ち、当時のことを知る人は少なくなりました。災害に強い地域づくりを進めるためにとても大切なのが、災害体験を語り伝えること。このことが過去の教訓を生かした、未来への備えにつながっていくのです。

クライマックスの、復興への願いを込めて市民が踊る場面

復興を遂げた市民の物語に1600人が涙で見入る

熱の入ったリハーサルで演技指導を行う岩渕憲昭さん北上川で助けられたサエコが父親と対面するシーン

 アイオン台風により磐井川が決壊した日と同じ9月16日、市民ミュージカル「今伝えよう一関の年輪」が一関文化センターで上演されました。「みんなでミュージカル実行委員会」(畠中良之委員長)が主催。6歳から73歳までの約50人の熱演に、時に涙を浮かべながら鑑賞した観客は、惜しみない拍手を送っていました。
ストーリーは、アイオン台風の実話を基に、失意と絶望から力強く復興に立ち上がる市民の姿を描いたもので、キャストをはじめ脚本、振り付け、楽曲ともに市民によるオリジナル。昨年、市民ダンスミュージカルとして演じられた作品を、今年はカスリン・アイオン台風60年事業のメーン行事として再演することが決まり、新たに出演者を公募して4月から取り組んできました。
 舞台は時の太鼓顕彰会による勇壮な太鼓演奏でスタート。アイオン台風による水害で宮城県登米市まで流され、奇跡的に助かった主人公サエコが一関夏まつりの時、孫に自分の体験を語り聞かせる形で展開します。
 市民が家族や家を失った悲しみ、その中を助け合って復興に立ち上がる姿を力強い演技、ダンス、歌で表現。フィナーレでは、出演者と観客がテーマ曲の「一関の空」を共に歌い上げ、会場は大きな感動で包まれました。
観客、スタッフ双方の心に大きなものを残したこの舞台。「自分が知らない水害の恐ろしさを観客に伝えなければならず、とても不安だったが、お客さんから大きな声援をいただき充実感を感じている。今までは身近にいる水害体験者の話を聞いたことがなかったが、今回の出演をきっかけに周りの人から体験談を聞くことができた」と主役サエコを演じた茂庭幸子さん(34)。姉道子役の赤崎悠菜さん(南小6年)は「練習は大変だったけど舞台は楽しかった。昔の人が、あの水害の後に今のこのまちを作り上げたことはすごい」とにっこり。市出身の俳優で賛助出演、演出を務めた岩渕憲昭さんは「全国さまざまな都市で市民ミュージカルに携わったが、今回は地元ならではの思い入れがあった。今は言葉にできないぐらいの感激と、誇らしさでいっぱい」と語りました。
主人公サエコのモデル、千葉貞子さん 「演技も歌も素晴らしかった。このような試みが続けられることで、子どもたちに水害の恐ろしさを伝えられるのでは」と鑑賞した50歳代の女性。15日夜の小学生と水害体験者向けの招待公演を鑑賞した佐藤仁泉さん(山目小5年)は「水害のことは学校で勉強した。ミュージカルは去年も見たが、今回も歌や踊りで楽しめた」と話しました。「舞台をきっかけに台風の記憶を多くの人に伝え、議論する機会を持ってもらえれば」と畠中委員長。

サエコのモデルとなった千葉貞子さん(67)=宮前町=は「昔は、あの記憶に触れられたくなかった。年齢を重ねるうちに、あの体験が忘れ去れてしまうと危機感が出てきて」と、自らの体験を話すようになったきっかけを振り返りました。
 2回の公演を合わせた観客は約1600人。市の人口からすると100人に一人以上の人が舞台を見たことになります。大切な人を失うつらさ、悲しさは時代が変わっても変わらない―ミュージカルを通して、そのことが改めて多くの人の胸に刻まれました。

 

ボランティアが語り部務める情報発信の基地“あいぽーと”

水害体験を語る催しが行われているあいぽーと狐禅寺に平成15年オープンした北上川学習交流館「あいぽーと」は、北上川の歴史や文化、治水などさまざまな情報を発信する施設。同館では18年から、水害体験を風化させないためのさまざまな催しに力を入れています。同館ではカスリン・アイオン台風の体験者がボランティアガイドとして“語り部”を務めているほか、写真展、水害体験を語る催しが数回にわたり行われてきました。阿部栄男事務局長は「災害時の行動は、過去に経験した人から教えられることがたくさんある。一関の水害の歴史を学ぶ場として、大いに施設を活用してほしい」と呼びかけます。
川崎町では水害体験者が子どもたちに語りました川崎町では7月7日、子どもたちがカスリン・アイオン台風を体験した地域の人から当時の状況を聞く催しが、ホタルについて学ぶ「ほたる探偵団」活動の一環として行われました。同町門崎の葛西信一さんが語り部を務め、カスリン台風で自宅が浸水し、北上川を人や家が流される様子を見た体験を、子どもたちに図面で示しながら語り聞かせました。
一関商工会議所は水害の被害を伝えるDVDを製作し配布伝える手段として、映像の力は大きなものがあります。一関商工会議所(宇部貞宏会頭)は同会議所創立60周年を記念し、水害被害と復興の様子を伝えるDVD「水が伝える物語~カスリン・アイオン台風の思い出~」を作成しました。両台風の様子を写真と水害体験者の証言を交えて、堤防工事、一関遊水地事業や今後の防災体制の課題も紹介。DVDは関係機関のほか、市内すべての小・中学校に配布されます。

「水害の悲惨さを伝えたい」写真集「一関の年輪」を刊行

「一関の年輪」刊行委員会水害被害の悲惨さを広く知らせることに大きな役割を果たした一冊があります。市内のアマチュア写真家、故横田實さんが収集・撮影した写真に資料、インタビューなどを交えた「一関の年輪」(同刊行委員会発行)です。平成2年に刊行されたこの写真集は、明治から現代まで、一関が移り変わる様子を写真で紹介。そのうち約7分の1をカスリン・アイオン台風の被害とその復興の様子などで占めています。
 「何といっても、写真は文章よりインパクトがあるから」と永澤卓三代表。横田さんの写真展を見て、この写真を世に出したいと刊行委員会を立ち上げました。発刊後は「思った以上の反響。子や孫たちとあまり会話のなかったお年寄りが、この本を見ながら生き生きと会話できるようになったと聞き、やってよかったと実感した」と語ります。
 12年には、2冊目となる「一関の年輪Ⅱ20世紀の一関」を刊行。現在同委員会は横田さんの遺した写真とネガをデータベース化し、「未発表の写真と、現在撮りためている写真で、3冊目を2010年に発行したい」。一関の歴史を記録する年輪は、今も刻まれています。


(広報いちのせき平成19年10月1日号)