建部 清庵 (たけべ せいあん) (1712~1782)

 蘭学史上に名を残した一関藩医で、蘭方医学の隆盛と多くの人材を育てた建部清庵は、一関藩医初代建部清庵(元水)の子です。仙台、江戸で医学を修め藩医を相続。内科、外科に優れた治療をほどこし、名医の誉れが高く、相次ぐ飢きんを憂いて、施薬調合法や救荒食用植物をまとめた「民間備荒録」「備荒草木図」を著し、多くの民を救いました。江戸の蘭方医学者の杉田玄白とも親交を結び、蘭方医学の疑問を玄白と交わした書簡は後年「和蘭医事問答」として出版されました。

大槻 玄沢 (おおつき げんたく) (1757~1827)

 一関藩医玄梁の長男で、12歳の時、建部清庵の門弟となりました。その後、杉田玄白から蘭方医学を、前野良沢からオランダ語を学び、26歳でオランダ語の入門書「蘭学階梯」を著わしました。玄沢は、後に長崎に遊学、江戸にわが国最初の蘭学塾「芝蘭堂」を開いて多くの門人を育てました。さらに「解体新書」を改訳し、「重訂解体新書」を完成させ医学の進歩に貢献しました。

大槻 磐渓 (おおつき ばんけい) (1801~1878)

 玄沢の次男で、早くから開国を唱えた和魂洋才の儒学者として活躍。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭に任じられました。戊辰戦争時には、藩政を左右するほどの思想的影響力を持ちましたが、戊辰戦争後は、戦争責任を問われ投獄されました。しかし、開国論に与えた影響には大きいものがありました。幕府に建議した「献芹微衷(けんきんびちゅう)」はその代表的なものです。

大槻 文彦 (おおつき ふみひこ) (1847~1928)

 磐渓の3男として江戸で生まれました。明治8年(1875)、29歳の若さで文部省から辞書の編さんを命じられ、16年の歳月をかけて、わが国最初の辞書「言海」を完成させました。この「言海」は、戦後までに700版を超えて刊行され、日本辞書史上不朽の名著として名を残しています。また、明治45年(1912)から新たな辞書編さんに取り組み、文彦没後も協力者によって作業は続けられて昭和10年(1910)「大言海」として世に送りだされました。

高平 小五郎 (たかひら こごろう) (1854~1926)

 一関藩医田野崎三徹の3男で安政元年(1854)に生まれ、一関藩教成寮から大学南校(東京)に進み外務省に入り、明治27年(1894)以後、イタリア、オーストリアなどの特命全権公使、33年(1900)から外務総務長官兼官房長を務めました。その後、再び特命全権公使として、アメリカに渡りわが国近代外交の樹立に貢献、特に38年(1905)のアメリカポーツマスでの日露戦争講和会議では、全権委員として条約調印に当たり、その後はアメリカ大使として老練な外交手腕を発揮し日米友好促進に努力しました。

長沼 守敬 (ながぬま もりよし) (1857~1942)

 安政4年(1857)一関に生まれ、わが国洋風彫刻界が揺籃期にあったころの代表的彫刻家の一人です。明治14年(1881)イタリアのベニスに渡り、王立美術学校で5年間彫刻を学んで帰国し、21年(1888)東京美術学校(現東京芸大)創立に参画する傍ら、意欲的に作品制作と発表を続け、堅実な写実主義の技法を伝えました。30年(1897)には、ベニス市設万国美術博覧会と伊仏両国美術工芸を視察、32年(1899)美術学校に設置された塑造科の初代教授に就任。代表作はパリ万国博覧会で金牌を受賞した「老夫像」です。

阿部 美樹志 (あべ みきし) (1883~1965)

 明治16年(1883)一関に生まれ、札幌農学校土木工学科に学び、わが国の鉄筋コンクリート工学の開祖といわれる工学博士です。44年(1911)には、農商務省海外練習生、鉄道海外研究生として、アメリカのイリノイ大学の大学院に学び、卒業論文「鉄筋コンクリート造剛接加工の理論と実験に関する研究」でドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を受けました。帰国後は初の鉄筋コンクリート高架鉄道を東京に完成させ、関東大震災では、同博士の設計した建築物に一つも被害が出なかったといわれています。