真山 梧洞 (まやま ごどう) (1854~1927)

 江戸時代の終わり頃、東山下折壁村(現室根町折壁)に生まれました。真山家は代々仙台藩に仕えていましたが、元禄年間に事情があって、中新田(現宮城県加美町)から、領地が替えられ折壁の領主となり、この地を治めました。
 梧洞は、真山家9代、図書徳輔の弟にあたります。兄徳輔は真山家最後の領主で、馬術に優れ、青山と呼び名のある南画家でもありました。梧洞は若い頃、水戸の師範学校で学びましたが、兄の影響もあってか、その頃から南画に興味を持ち学び始め、更に東京に出て南画の勉強に励み、南画家として生涯精魂を傾けました。名は栄三郎、雅号は柳湖(りゅうこ)または梧洞と称しました。

昆野 八郎右衛門 (こんの はちろうえもん) (生没年不詳)

 江戸時代前期、長坂村(現東山町)の肝入りの子として生まれました。15歳の時、釘子村肝入り昆野茂左衛門の養子となり、28歳の時、徳田村(現藤沢町)の星惣五郎の娘と結婚しました。38歳の時に養父が病死したので、肝入役を命じられました。この頃、3、4年間凶作が続き、農民は大変苦しんでいましたが、それにもかかわらず税を重くされました。八郎右衛門は、農民の苦しみを見かね、度々税を軽くするよう願い上げましたが、聞き入れてもらえず、農民の中には餓死する人も出ました。仙台藩主の東照宮参拝の折り、かねて用意しておいた1通の訴状を差し出しました。八郎右衛門はその場で捕らえられ、七北田の仕置場で処刑されましたが、この直訴により、この地は穀納から金納に改められ税金も軽くなりました。

相沢 暁村 (あいざわ ぎょうそん) (1880~1968)

 本業は医者で、刀剣や鐔(つば)の研究でも有名な人です。明治、大正、昭和の3代に渡って、岩手県内をはじめ、全国の俳壇にも名を知られた俳人です。本名は寧(やすし)といい、明治13年(1880)に室根村折壁字屋中に生まれました。折壁小学校を卒業し、仙台の日進学舎で学び、その後仙台医専(現東北大医学部)に進学しました。医専在学中、奥羽百文会に入会、そこで俳句を学び、卒業後、郷里に帰り医院を開業、明治39年(1906)に青森県法奥沢村村医として赴任しました。そこで、俳誌「高潮」の刊行を続け、「白雨会」を結成し句作に励みました。明治42年(1909)には、浄法寺村村医となり、文芸誌「曠野」を創刊し、岩手文壇の主流となり、中央文壇とのパイプ役を務めました。明治43年(1910)には、暁村主宰の排誌「銀河」を創刊し、翌年郷里に帰ってからも刊行を続けました。

菅野 真澄 (かんの ますみ) (1882~1907)

 明治の末、大志を立てて、単身上京、国文学者佐々木信綱の書生となり、和歌の添作をしながら国文学の研究を行いました。後に才能を認められ、宮内省図書寮に出仕しながら、国学を研究、日本歌学史など多くの遺稿を残しましたが、激烈な勉学のため健康を害し肺患となり、在京僅か5年、26歳、道半ばにしてこの世を去りました。日本美術、心の花、思想天使、歴史地理などに短歌や論文を投稿、明治40年(1907)には、日本歌学史、新葉和歌集評釈、日本初階の美術、鎌倉右大臣家集評釈の原稿が完成し、その才能が社会に認められかけたその矢先、くしくも異郷の地で、恩師、門弟の悲涙に見送られながらその短い生涯を終えました。