陸奥国骨寺村絵図

 文治5(1189)年の奥州合戦により、約100年の栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡しました。当時の中尊寺経蔵別当心蓮>はその直後、志波郡陣丘(現紫波町)に宿営していた源頼朝のもとに参上し、骨寺村の存続を嘆願しました。骨寺村は即日に経蔵別当領として頼朝から安堵され、「東・鎰懸、西・山王窟、南・磐井川、北・ミタケ堂馬坂」の四方の境の確認もなされました。これらの様子は『吾妻鏡』(※)の文治5年9月10日の項に記されています。
 その四方の範囲を経蔵別当領・骨寺村として描いた2幅の荘園絵図が、中尊寺の大長寿院に伝わっています。鎌倉から南北朝時代ごろに描かれ、国の重要文化財に指定されています。
 村にある神社などの経営費用を賄う仏神田の記述のある方が仏神絵図(簡略絵図)、在家や水田の形が詳しく描かれてあるものが在家絵図(詳細絵図)です。絵図は、当時藤原氏に代わって頼朝から支配を任された葛西氏が、度々荘園に対し自領であるかのような動きをしたので、その葛西氏との境相論の際に使用されました。
 絵図に描かれた地形は距離や面積が正確ではなく、山や川など、対象物の相関関係を表しています。本寺の平野の中ほどに立って見た風景を描いたと考えられます。
 絵図には中世の農村の風景や生業、神仏への信仰など多くの情報が描き込まれ、人々の暮らしに根ざした精神世界の豊かさを感じ取ることができます。
※『吾妻鏡』=鎌倉幕府が自ら編さんした歴史書。1180年から1266年までの出来事を年月を追って記している

問い合わせ先

本庁骨寺村荘園室

(広報いちのせき 平成19年10月15日)