和算に挑戦

平成18年度出題問題②[中級問題]&解答例

 台形の中に図のように円が内接しています。ABの長さは6cm、DCの長さは2cmで、∠ABC=∠BCD=∠90°です。このとき円の直径は、何cmでしょう。
※一関の和算家千葉胤秀(ちば たねひで)編集した『算法新書』(文政13(1830)年刊行)巻の二にある問題です。

審査員講評

 今年度の中級問題には、約650名から投稿があった。当然ながら解答数はそれを大きく上回る。採点には長時間を労したが、投稿者の解答作成にあたっての工夫や熱意が感じられる楽しい時間であった。
 中学生から90歳という高齢の方まで、幅広い年齢層から解答が寄せられた。何通りかの別解を寄せられた方もたくさんいた。前川太市氏(高槻市)は8通りの解答を提出している。
 この問題は、円の共通接線とピタゴラスの定理でも解答できる問題なので、中学生にも解答可能であった。また、唯一初等幾何から微分まで様々な解答が可能な問題であり、皆さんに数学(和算)を考える楽しい時間になったように思う。

 解答は、挑戦数の多い順に並べると以下の4通りに大別される。

解答1
台形に円が内接する図をそのまま使用し、円の共通接線とピタゴラスの定理を使用した解答。中学生に多く見られた。誤答になった人は方程式がうまく解けていないことが原因であった。

解答2
斜辺ADを延長して、直角三角形をつくり円の半径についての方程式を導く解答。無理方程式を解くことになるが、この方程式をうまく解けない方がいた

解答3
共通接線のなす角の半角を考えて、正接の倍角公式に持ち込む解答。
よく知られた図形上の性質を利用し、多くの人がこの方法を使用していた。

解答4
図形が単純なので、xy座標軸上で円の中心を原点にとり直線の方程式から長さを考える、高校の範囲内で解析的に解答する内容。
高度な解答になるが、橋爪宏達氏(東京都)は4変数の直線の方程式を偏微分することで直線の包絡線を導き、下記の性質と正解を導いていた。

解答5
その他

 千葉胤秀の「算法新書 巻の二」にもこの類題があり、解答として「内接円の半径の逆数=上底の逆数+下底の逆数」(すなわち円の直径は上底と下底の調和平均になっている。)が記載されているが、千葉秀昭氏(宮城県栗原市)はじめこの性質を既知としたり、きちんと導いている方が見られた。
 年齢が高くなるに応じて、正解率が高いように思われた。特に、大学生と非常に高齢の方々は全員が正解で頼もしく感じた。
 解答の表現は、感覚的なあっさりしたものから、例えば狩野連男氏(宮城県登米市)その他の方々のように使用した定理すべての解説を行い、だれが読んでも理解しやすい非常に丁寧な、教材に使用したいような解答等、多種多様であった。誤答は推論の誤りと計算ミスであった。
 次回も投稿をお待ちします。

(阿部克朗、菅原通、安富有恒)

 

解答例

 

解説

この問題が掲載されている『算法新書』巻の二の原文をみてみましょう。
 『算法新書』巻の二の「容術」の項、25問のうちの10問めにあります。容術の「容」は、内接するという意味で、容術は、多角形、円等に直線や図形を内接させた問題です。和算では、容術が大きな部分を占め、特に算額の問題は、容術の問題がほとんどです。今回の上級問題も容術の問題です。

 

 

問題 半梯(はんてい)(等脚台形を底辺に垂直な直線で2分したときの一方の図形の形)の中に図のように円を入れる。大頭の長さが6寸、小頭の長さが2寸のとき、円の直径はいくらか。

答え 3寸

 大頭に小頭をかけ、大小頭の和で割り、2倍する。つまり、

図解 解 図で小頭と「子」が等しい。よって、小頭を「勾(こう)」(直角三角形の短辺)とし、大頭を「殳(こ)」(直角三角形の直角を挟む辺のうち長い方)とし、「第一術の比例」によって、その直角三角形に内接する方面(正方形の一辺)を求めるときは、この問題の円の直径の半分である。従って、2倍して、求める円の直径となる。)
 “「第一術の比例」によって”とありますが、この項の第一術で解説した方法を用いてということです。第一術は、下のように直角三角形に内接する正方形の一辺を、比例式を用いて求めています。
 現代風に解説すると
  問題は、図のような直角三角形があり、勾4寸、股(「殳」と同じ)12寸の時、内接する正方形の一辺を求める問題です。

 

 

つまり、『算法新書』では、大頭を直角三角形の長辺とし、円の中心を通る線を斜辺とする直角三角形を考え、これに内接する正方形が円の半径に一致することから、第一術の式の2倍として求めています。

 すなわち、円の直径は、大頭と小頭の調和平均となる性質を示しています。

 『算法新書』の後に出版された和算の公式集である『算法助術』(長谷川弘校閲、山本賀前編、天保12年(1841))にも、下のようにこの式が掲載されていますから、江戸時代の終わりごろには公式として知られていたことがわかります。

 

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