江戸時代の一関城下~町方の家~

一軒屋敷図(大町の塩屋佐藤家の敷地平面図。明治10年代の図。江戸時代は図の着色部分が基本的な施設だったと思われる)江戸時代、町方の住居は町屋敷と呼ばれ、間口が狭く奥行が長い特徴的な敷地平面となっていました。

当初、町屋敷は仙台城下では表間口6間、奥行き25間を基準に地割され、これを「一軒屋敷」と称しました。

一間は約181センチメートルです。

一関ではどうだったのでしょうか。

江戸時代の前期で、田村氏が一関に移る前の寛文13(1673)年、当時の大町の町屋敷数は63軒で、平均して、間口が6間ほど、奥行きが27から28間、面積が170坪ほどとなっていました。

一坪は約3.3平方メートルです。

一関城下でも仙台にならって「一軒屋敷」が基準となって屋敷割が行われたと考えられます。

また、「一軒屋敷」を間口半分に2分割したものが「半軒屋敷」と呼ばれました。

その後、200年ほどたった幕末には、町屋敷は113軒とほぼ倍増していました。

幕末のころの大町を例にすると、「一軒屋敷」は22軒で、間口は5.95間から8.05間、奥行きは平均34間ほど、面積は平均240坪ほどとなっています。

「半軒屋敷」は91軒で、間口は3.25間から5.7間、奥行きは平均32間ほど、面積は平均120坪ほどとなっています。

「一軒半屋敷」とある1軒は、大肝入役所敷地で、町屋敷には含まれません。

このような変遷は、江戸時代後期以降の町方の人口増加による「一軒屋敷」の分割、「半軒屋敷」化が進んだ結果と考えられます。

屋敷内部の平面図を、大町の塩屋佐藤家を例に紹介します。

間口6.22間、奥行き32.5間、面積202.15坪の「一軒屋敷」の事例です。

明治10年代に作成された「巌手県陸中国一関村大町三番地絵図」を基に、現当主のご教示を得て再現したものです。

江戸時代には、表店、居住区画の居宅、井戸・厠・土蔵というのが基本的な施設(図の着色部分)であったと考えられます。

図にある、みそ・しょうゆ醸造関係の施設は、それらが主生業として本格化された明治期以降の付設の可能性があります。

ただし、明治9(1876)年の大火により、城下北半分の700戸を焼失。

この時佐藤家も類焼し相当部分を再建しているので、この図面は江戸期の状況を正確に再現したものとはいえません。

しかし、基本的には従来の構造を踏襲していると考えられます。

現在の町場の家も江戸時代の「一軒屋敷」と「半軒屋敷」のなごりで、道路に沿って間口が狭く奥行きの長い敷地となっています。

一関市博物館案内テーマ展 一関城下の町方

町割・屋敷・商い・人口・五人組・火消組・祭りなどを中心に、活気ある商業活動で城下を支えた町方を紹介します。

■会期…6月6日(日)まで

■展示解説会…5月9日(日)、6月6日(日)11時~12時

参加者募集

【和算講座初心者コース】「楽しむ和算」
江戸時代に出版された『勘者御伽双紙』を読み解きながら、庶民が親しんだ和算の世界を楽しみます。

■日時…初回は6月5日(土)13時30分~15時。12月まで月1回開催

■定員…一般36人

■講師…岩手県和算研究会

※参加無料

(広報いちのせき 平成22年5月1日号)