中尊寺と骨寺村のかかわり~中尊寺経蔵と骨寺村荘園~

 一関インターから国道342号を須川方面に車で15分ほど行くと、磐井川沿いの崖とせり出す岩山に左右を挟まれた、道幅が急に狭まる場所にさしかかります。そこが来年夏の世界遺産登録を目指す、平泉の文化遺産の一つ「骨寺村荘園遺跡」の入り口です。
 遺跡がある厳美町の本寺地区は、中世に「骨寺村」と呼ばれた中尊寺経蔵の荘園(※)でした。当時描かれた絵図の農村景観を今に伝え、現地に立って絵図の世界を体感できる大変貴重な遺跡です。
 現在の「本寺」という地名は、江戸時代の初めに「骨寺」から変化したと言われています。ではその骨寺村とは一体どういう所だったのでしょうか?

 今から950年前の平安時代中頃、奥州では前九年、後三年という二つの大きな合戦がありました。この争いに巻き込まれ悲惨な運命に接した藤原清衡は、11世紀末に拠点を平泉に定め、浄土思想に基づいた平和な都市の建設に取り掛かりました。そして度重なる戦で命を落とした敵味方すべての人々の霊を慰め、弔うために中尊寺の建立を始めたのです。約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まります。
 清衡は、自らの発願による『紺紙金銀字交書一切経』(約5300巻)を8年かけて完成させた自じ在房蓮光を、その経巻を納める経蔵の初代別当に任命しました。この時、蓮光が私領であった骨寺村を経蔵に寄進したところ、改めて清衡から経蔵の維持費用を賄う土地、「荘園」として与えられたのです(1126年)。これが中尊寺経蔵別当領「骨寺村」の始まりで、15世紀の室町時代まで維持されていきます。

※荘園

奈良時代に始まり、室町時 代まで全国に散在分布した貴族・寺社などの私的所有地をいいます。それに対し、国の支配下にある土地を「公領」といいます。

  

問い合わせ先
本庁骨寺荘園室

(広報いちのせき平成19年7月15日号)