室根神社の特別大祭は、養老2年に(718年)紀州の熊野から熊野大社の御神霊を勧請して以来、連綿として行われて来たものです。遠く1287年の歴史をもち、古くから奥州の三大荒祭として有名です。
神社の発祥は、元正天皇の勅命によっての勧請であり、古くは奥七郡の総鎮守として広く地方の信仰を集め、祭典は閏年の次の年を大祭年として継続されて来ました。神社勧請の年が閏年の次の年であった故事に基づくものです。

 殊にこの祭は、旧態を固く伝承し継続されています。その祭事に奉仕する神役は古の神役の末孫がこれに当っており、その範囲は一関市(室根町、大東町、千厩町、川崎町)は勿論、大船渡市、宮城県気仙沼市および唐桑町に及んでいます。神役にして然り、室根山の繁栄時代の祟敬者に至っては、相当広範囲にわたっていたであろうことが想像されます。


大祭は、神社の歴史の古さ、由緒の貴さを背景に1287年前勧請の故事を現代にまで継承していることは他に見られぬ特色です。その故に、昭和56年に県から文化財に指定され昭和60年国重要無形民俗文化財に指定されました。

献膳(室根神社・午前1時)

 宮城県気仙沼市新城から粥の献司が参殿し粥を奉ります。粥の炊き方に秘事があるといわれています。陸尺の御飯炊事役は、神社勧請のとき勅使供奉の神士のお宿をした上折壁郷長、長金某の子孫として維新前までは飯米を献進していたましたが、明治3年後そのことがなく神役として奉仕しています。

 


各神役参殿


 

御塩役 祓塩を奉る神役で、養老2年(718年)細浦に神霊が着いたとき祓塩を奉納した漁民の末裔として本吉郡唐桑の舞根

から来ています。現在も舞根より塩水を竹筒に入れ新しい塩とともに祭日の19日深夜神前に捧げます。

 

 

長刀役
往時坊中の左近坊、慈近坊の末裔で猿田彦の役をもちます。大東町摺沢から来ています。直垂を着て毛頭をかぶり、神前の長刀を振りまわし猛烈な祓をします。

 

御鍵持参殿
東磐井郡門崎浄円坊からでて来る神役で、先祖が室根山四十八院のうち神社奥の院の鍵取締神職であったのが、文応年中廃寺のときから門崎に移ったものらしくいまでは大祭のときには、御鍵持として出ます。
 

御魂移しの式
御堂の中の一切のあかりを消し、暗黒の中で行われます。終ると神官から神輿が陸尺頭に渡され、神官から一切の権限がはなれます。
神輿舁陸尺頭は、本宮神輿の取締り役で、養老2年(718年)神社勧請のとき、早くも出迎えて供奉した今上(速留)某の子孫ということであるが、曽慶と室根村釘子今上

屋敷から出、大勢の陸尺を従え登山します。背じるしに蛇の目の紋を用い200人程です。
新宮の方も千厩町奥玉、大東町の大原、興田からいづれも天台の坊中の子孫で、背じるしは菱の紋を用いて出ます。
文化年間の記録では、陸尺は25人ずつ50人となっています。室根山旧事記によれば御神輿陸尺各108人とありますが、その後どう変ったのか現在は各600人といわれます。
神輿につく陸尺にしても「七祭奉仕しなければ、棒にふれられない」といわれています。七祭とは7回の祭に参加することを意味し、いかに厳しいものであったか、往時をうかがわれます。
 

発輿式
本宮、新宮の御魂移しが終ると、本宮、新宮お互いに出発の準備が整ったことを知らせ合う連絡が7回行われます。
 

新穀献納の式
御輿が神社を出てから、途中「田植の壇」で農王社に新穀献納の式が

あり、それから山を降ります。
 

途中行事
大先司先乗り、御神馬、荒馬先陣、袰先陣、御袋神社背負騎馬等が途中山麓まで神輿をお迎えし、前後に供奉し、折壁町にかかると、先頭長刀役、これは猿田彦の神役ともいいますが、長刀の石突を突張り、互に交叉して神輿を停め、列を正して掛声高く不浄を祓い、鉾を振り真先に立って祭場に来ます。両宮の陸尺各々半数は祭場に残っていますが、神輿到着の時刻になれば祭場入口にお迎えし、本宮、新宮押し戻して一線になった上御仮宮に神輿の先着を相争います。

お仮宮はお旅所ともいい、古くは黒水の御所と言いました。立柱2丈8尺5寸に切り、3尺土中に掘り込まれて2丈5尺5寸です。新宮の方は本宮より2尺下げて建てられます。
これは昔、日本武尊の行在所を模して建てたとも伝えています。
往古は屋根を白檀の葉で葺き、葛の木に白檀両えびらを立て、数百本の竹を立てて四方を囲み、注連縄を張り神輿還幸のあと火中に投じて焼却しました。大祭の前、陸尺頭から造営の役に引渡し、設

計に合わねば再造営を命ずるなど厳格なしきたりがありましたが、今は氏子で造っています。


お仮宮行事
両宮先着争いのあと神輿が仮宮に御着きになれば、御袋神社にお逢いし、献膳があり、別当神職が祝詞を奏上します。これが祭典の式で式後大先司をはじめ荒馬先陣、袰先陣、

花屋台等が周囲を3度めぐります。
また舞姫による舞が奉納され、終ると行列を仕立て神輿還幸を町尻まで見送りします。


大先司先乗り
 養老2年に神社勧請のとき勅使として下向しここに居住した紀州の鈴木左衛門尉穂積重義と県主等の末裔で、京都よりの勅使になぞらえ累続の家門から出ているもので往事は、おさかんむり、白綾の直垂に金覆輪の鞍を召し官人12人、重藤の弓に鷲の羽の素矢、鉾、太刀を持って護衛したものといいます。


祭事は、天平元年(729年)よりの起源になっており、嘉応年中(1168~1170年)まで勅使の下向があったが、秀衡鎮守府将軍として平泉に御所を置いてから朝廷では将軍にまかせ、前例を廃したため祭りの神役として伝え来られています。

 

御先旗
本宮勧請のとき供奉

して来た副使の末孫としてありますが、神亀年中(726~728年前)から継続している神役です。


荒馬先陣
神社勧請の時、本吉郡唐桑に上陸してから手長山に奉遷、更に道を矢越にとり、それから室根山に奉遷したが、その時矢越の郷民をもって白馬17騎を整え、神輿を供奉した例によるもので、当時、郡司であった上折壁浮船左衛門尉義光の末孫といわれる本田屋敷が951年前の天喜以来、累続して17騎の取扱いをして来たが、天正年間(1573~1591年)からは、村肝

入がその職をとることにかわり、指物武具をつけたものであったのを、629年前、正和2年(1313年)の祭礼から諸大名の礼服にならって麻裃着用で供奉するようになったといわれています。

御袋神社背負騎馬
烏帽子、直垂の装束で神輿を背負う騎馬の神役で、養老2年(718年)神社勧請のとき供奉して紀州より来た湯浅権太夫が勅諚によりこの地に住んでいましたが、その母堂高齢でありながら深く熊野権現を信仰し、南海を同行の途中病死しました。(当時87才)その遺言によって、一夜のうちに布を織り、11面観音の御尊像に御鏡を添えて流しました。ところが折壁の湊に止まって流れません。神霊に伺ったらこの地に留まって郷民を利益するようにとあり、よって養老4年(720年)9月17日勧請して御袋大権現と崇められることとなりました。以後、別当が背負って祭りに加わ

りますが、山には昇らない古例を伝えています。

袰先陣

 袰先陣は、藩主政宗公時代この大祭に領主の参拝がありました。それが取止めになったので、当時の地頭真山公が祭典の淋しくなったことを遺憾に思われ、家臣を江戸に遣わされ細川家登城の行列を見習って来させ、それを真似て土

地の富裕者に行わせたものです。

馬の背に取付けてある牡丹の造花は、曲ろくの花といいます。直径4尺もあり相当な重さがあるので荷鞍の中に小豆を幾斗か入れてあります。馬の口取りが2人ついて馬子歌を唄いながら歩きます。

南流神社
町から600m程南にある南流神社は、室根神社の神輿を常に安置してありますが和銅2年(709年)の創建で、今より1296年前、板橋与吾弥が勧請しました。日本武尊の討伐した鬼神及び官軍の戦死者を弔ったものと伝えられています。


老年2年(718年)、室根に本宮勧請のとき帝都からの勅使や将軍が参拝した古例によって当大祭のときは、大先司先乗りをはじめ各先陣が参拝することになっています。
ここに安置されてある聖観音木像は、県指定の有形文化財になっています。


祭場棧敷
祭場の周囲は棧敷に取りかこまれていますが、棧敷の敷地は各戸それぞれ所有権を持っており、祭典修了後は解体して各戸に保管しておきます。
古くからこの祭りは騎馬祭でした。幾十となく集まる乗馬、互に先を争い乗り廻したので危険をさける為の意味もあった様です。いまなお旧家にはそのとき使用した陣羽織、馬乗袴、和鞍などが残っています。