2葉の骨寺村絵図

 
 中世の骨寺村を知る史料として、2葉の骨寺村絵図(重要文化財)が中尊寺に所蔵されています。書き込みの多寡から「詳細絵図」、「簡略絵図」と呼称していますが、描こうとした対象の違いから「在家絵図」、「仏神絵図」とも呼ばれています。どちらも鎌倉時代後半に描かれたものですが、「仏神絵図」の方がやや古いと考えられています。絵図作成の動機については、堺相論の証拠として作成されたという説や、経蔵別当による村支配のためとする説が挙げられますが、相論の証拠として使われたこと自体は間違いないようです。「在家絵図」の紙背には「寺領郡方堺論具書」と読める文字があり、中尊寺と郡方、すなわち郡地頭であった葛西氏との間の相論において証拠書類として提出されたものであることが明らかです。
 

在家絵図(詳細絵図)

仏神絵図(簡略絵図)

◇在家絵図
 
 4枚の料紙を貼り継ぎ、西を天にして村全体を余すところなく描いています。村自体の四方の堺は、西は山王窟、東は鎰懸、南は磐(岩)井川、北はミタケアトから馬坂新道までの山の稜線であることが、強調されたなぞり線で把握できます。これは『吾妻鏡』の文治五年(1189)九月十日条に記されている骨寺の堺四至にほかなりません。この絵図はその事を強く意識した描き方になっています。また、村の生活空間が詳細に描かれていることも特徴的です。貢納の義務を負う在家と称する農民は建物と水田が一体として描かれ、水田も沢水や湧水を利用した原始的なものと、区画整備や川からの取水といった土木工事を伴うものの二種類が読み取れます。村の信仰については、西に位置する山王石屋により、この村が山王信仰、つまり天台宗の一つの拠点として形成された村であることを強く印象付け、村の西の台地上にはそれに関連するように「骨寺堂跡」「房舎跡」などが柱の痕跡を示して描かれています。さらに道路についても「古道」と「馬坂新道」があり、古道は川に沿った崖沿いの交通困難な道で、馬が通れる道として新たに作られたのが馬坂新道だったと考えられます。このように、この絵図からは中世の村づくりの経過が様々に読み取れるのです。
 
◇仏神絵図
 
 4枚の料紙を貼り継ぎ、西を天にして描かれています。もとは下端(東)に少なくても2枚の料紙が貼り継がれていたことが調査により分かっています。また、右上料紙の上半部も欠けています。
 雄渾な筆致で描かれた周囲の山並みと、その中に村の中心部分を描き、道と川は一本の線で描いています。山裾には点線も見受けられます。西の山裾には村の名前のもとになった骨寺が既に廃寺になったことを示すように「骨寺跡」という文字で記され、そのほかには「山王」「六所宮」「金峯山」「うなね」「御拝殿」など、宗教に深く結びついた施設が見えています。ただし、「山王」と「御拝殿」は後筆です。また、文字情報で「宇那根田二段」「六所神田二段」などの宗教施設の免田が書かれていて、これがこの絵図を「仏神絵図」と呼ぶ根拠になっています。
 
◇現地との比較
 
 絵図に描かれた図像や文字で記されたものの大部分は、現在も現地に比定することができます。中世以来の地形や景観が大きく改変されることなく今に受けつがれてきた、この村ならではのことです。
 西を天にして描かれたこの絵図で、もっとも上に描かれた「駒形根」「駒形」は、宮城・岩手・秋田の三県にまたがる栗駒山です。春の雪解けのころには、山の中腹に駒形の残雪があらわれることで、この名があります。
 絵図の南の端を東流する磐井川は、今も当時そのままに本寺地区の南側を流れています。「在家絵図」で駒形根の下に、より鮮明に描かれた「山王石屋(さんのうのいわや)」は、この村の西の境界です。その東には「骨寺堂跡」「房舎跡等也」という文字が、柱跡かと思われる図像とともに並んでいます。「仏神絵図」には「白山」「寺崎」という文字も見えます。これらは村の西の水田よりはやや高い台地上にあるように描かれています。「在家絵図」の「六所宮」は、そこから少し離れた、台地の北側にあるように描かれています。白山社は今も絵図の通りの場所に建っていますが、この村の名前にもなった骨寺は、鎌倉時代にはすでに廃寺になっており、「房舎」を含むその跡がどこであるのか、調査を継続しています。
 「在家絵図」の北西端に見える「ミタケアト」という文字は、四至(しいし)の一つである「峯山堂(みたけどう)」です。これは「仏神絵図」の「金峯山(きんぷせん)」にあたります。金峯山は「カネノミタケ」といいますから、「峯山堂」は「ミタケドウ」です。「ミタケアト」は峯山堂跡の意味でしょうか。「在家絵図」がつくられた鎌倉時代後期にはもう廃絶していたのでしょうが、「ミタケドウ」は山の呼称として今も伝えられているのです。伝承の根強さを示す事実です。
 「在家絵図」で馬坂(まさか)新道の突き当たりに描かれている「宇那根社(うなねしゃ)」は、「仏神絵図」では「うなね」と表記され、やはり道沿いに描かれています。現在でもこれらの道が通っていたと考えられる場所には中道と呼ばれる道が通っており、絵図に見える「宇那根社」や「うなね」は、この道の突き当たり付近と考えられます。その場所は今もウナンダ屋敷といいます。「宇那根」は湧水を意味するのではなく、用水路の根元を意味する語で、宇那根社は用水の神です。ここは農業村落としてのこの村の一つの中心をなすところであり、絵図でも中心的な場所として描かれています。
 「在家絵図」の宇那根社(うなねしゃ)から東へのびる「馬坂新道」の途中に、神社の図像が描かれており、それに相当するところに、「仏神絵図」では「若御子神田二段」という注記があります。この神社は「若神子社(わかみこしゃ)」であることが確かです。その場所は水田の中に島状の高まりをなしていて、高い杉の木が遠くからもよく見える、村の水田の中を歩く際の目印になっています。
 「仏神絵図」の北の稜線の東の端に近いところに、「慈恵柄」という文字が見えます。「柄」は「塚」のことで、慈恵大師すなわち第十八代天台座主良源のしゃれこうべを埋葬した所と伝える遺跡です。今も村境の山の上にはそう伝える積石塚があり、山の麓の国道沿いには、大師堂があります。中世には、この傍らを馬坂新道が通っていたものと思われます。また、「仏神絵図」では「慈恵柄」の南側に簡単な建物の図像と「御拝殿」という文字を記していますが、これは後の書き込みで、中世にはなかったものと思われます。
 以上の場所は国の史跡に指定され、保護が図られています。また二枚の絵図に描かれた周囲の山並みは、今も変わることなく、描かれた当時のままの姿を伝えています。特に「仏神絵図」に描かれた北の山並みは写実的で、今も絵図そのままの姿を、村の中から見ることができます。
 
 

重要文化的景観

 
 「骨寺村荘園遺跡」は、国指定史跡としての保護に加えて、平成18年7月に「一関市本寺の農村景観」として国の重要文化的景観に選定されました。その面積は、中世の骨寺村の四至を基本にし、周辺環境を保存するために定められた景観計画区域761.0haの中核部分、344.2haにあたります。鎌倉時代の絵図に描かれた農村風景が、その後の700年を経過する中で緩やかに変化しつつも、今にいたるまで、その基本的な姿を残してきたことが、急激な都市化の進行によって変貌してきた日本の農村の中で希有の事例として評価されたためです。そこには不整形の小区画水田が存在し、中世以来の水系が大きく変わることなく利用され続けています。
 
要害橋から絵図描写を眺める 自然地形に沿って形成された水田
◇土地利用
 
 「在家絵図」には在家と水田の形が具体的に描かれており、それがこの絵図の特徴をなしています。「在家絵図」に描かれたこの村の水田には、(1)山沿いの在家と結びついた塊状の水田、(2)本寺川の南に接した小規模な水田、(3)中沢と記された沢の源頭に位置する塊状の水田、および(4)本寺川北岸に見える12枚に区画された方形の水田の4種類が見えます。(1)および(3)は北および西の山から湧水を利用する水田で、在家農民が個別に開発したものと考えられます。(2)は本寺川の水を利用する水田ですが、これも小規模で、個別に川から水を引いたものと考えられます。
 これに対して(4)は本寺川の水を上流で堰きとめて、用水溝を作って田に引き入れたもので、在家農民による個別の開発によるものではなく、比較的大規模の、組織された労働力と設計によるものです。おそらくこの村を中尊寺に寄進した自在房蓮光(じざいぼうれんこう)その人、あるいはそれにつながる人の手によって開発されたものでしょう。
 しかし、この水田開発によっても骨寺村の平野部は、現在のようにその全面が水田化されることはなかったのです。中世の文書に出てくる在家の名前などは、現在の村の西側にだけ集中しています。上記のような灌漑用水だけでは、村の西側一帯を水田化することができなかったのです。それが可能になるのは、磐井川の水を上流で堰き止め、長い水路をつかって水を引いてくることが出来るようになってからのことです。この村では下り松用水という水路が江戸時代の後半につくられ、この村の水田は一挙に現状に近いものになりました。
 ただ、中世においても水田だけが農民の生活基盤だったわけではありません。「骨寺村の貢納品」の項で述べたように、この村からの貢納品の中には「山畠の粟(あわ)」「栗所(くりどころ)の干栗(ほしぐり)」「歳末立木(さいまつのたてぎ)」のような畠や山野の生産物もふくまれています。水田以外のところでも活発な土地利用が行われていたのです。
 
◇生活空間
 
 「在家絵図」を見ると、(1)北の山裾に6軒、(2)本寺川の南に3軒、(3)馬坂新道と古道沿いに2軒の在家が描かれています。どれも水田の図像と結びついており、小規模ながらも屋敷の占地とともに、その周辺で水田の開発が進められる散居村の形をしています。そして、この居住形態は「在家絵図」に描かれた「馬坂新道」と「古道」が国道に変わるなどの違いはありますが、今も受け継がれています。また、家々の西側と北側には「イグネ」と呼ばれる防風林がつくられています。「イグネ」は中世にさかのぼるものなのかどうか明らかではありませんが、その中には墓地や屋敷神があり、また落ち葉を燃料に使うなど、「イグネ」は日常の生活に様々な形で活用されています。
 
 
 

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