館蔵品

太刀 銘 舞草たち めい もくさ

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刃長 72.7cm  反り 2.1cm  元幅 3.2cm
鎌倉時代


 鎬造、庵棟、身幅広く、反りやや浅く、中鋒延びごころ。鍛えは大板目流れ、地沸つく。刃文は直刃、物打はのたれて二重刃交じり、やや締まりごころとなり、下半は単調な直刃で、匂口はやや沈みごころで、元から刃文に沿って直映りが立つ。帽子は先は尖りごころに返る。茎は生ぶ、先栗尻、槌目仕立てとして目釘穴1個、棟寄りに「舞草」と大きく二字銘を切る。

 この太刀は、大板目(おおいため)が肌立った地鉄や匂口(においくち)が沈んだ刃文、槌目(つちめ)仕立ての茎(なかご)などに舞草刀の特色がみられる鎌倉時代後期頃の作で、茎に「舞草」と銘を切った刀剣としては最も古い作例として知られています。
 舞草刀は、平安時代から室町時代まで刀剣史にその名を留めていますが、その名声は高く、舞草刀に代表される奥州刀は都で衛府(えふ)の太刀として使用されたほか、説話集や物語にもたびたび登場しています。最盛期は平安後期の奥州平泉藤原文化が華開いた頃とされています。
 舞草刀工として古伝書(こでんしょ)では朝廷に刀三千本を献上した光長、源氏の宝刀「髭切(ひげきり)」の作者文寿(もんじゅ)、古備前正恒(まさつね)の父安正など多くの名を伝えています。現存する最古の古伝書観智院本(かんちいんぼん)「銘尽(めいづくし)」では「神代より当代まで上手之事」と書かれた42名中に舞草刀工と思われる名前を実に8名見いだすことができます。この地方が優秀な日本刀の一大産地だったことを物語っていると言えましょう。現在では鎌倉時代以降の作例を宝寿(ほうじゅ)や世安(せあん)にみることができ、月山もまた一派でした。
 岩手県の中央を南流する北上川を挟んで西側に平泉、その対岸東側には一関市舞草地区があり、その一角をなす観音山の中腹に鎮座する延喜式内社草(もくさ)神社周辺が、刀工達の工房があった場所と想定されています。今は一帯を樹木が覆いつくして往時の面影を見ることはできません。

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