館蔵品

民間備荒録みんかんびこうろく

民間備荒録

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民間備荒録 目次(現代訳)
巻之上
備荒樹芸之法(飢饉に備えて植物を栽培する方法)
備荒儲蓄之法(飢饉に備えて貯える法)
巻之下
療垂死饑人法(餓死しそうな人を救う方法)
救水中凍死人法(水に入ったり雪にあって凍死しそうな人を救う方法)
食草木葉法(草木の葉の食べ方)
食生黄豆法(生の豆の食べ方)
食生松栢葉法(松や柏の生の葉の食べ方)
辟穀方(穀類を節約する方法)
米粃味噌之法(ぬかみそを作る方法)
風犬咬傷治法 附諸虫獣傷 (やまいぬに噛まれた時の治療法 付その他の虫や獣に噛まれた時の治療法)
食草木葉解毒法(草木の葉を食べて中毒した時の治療法)
食草木葉解毒法(草木の葉を食べて中毒した時の治療法)
祈祷
 建部清庵著
 板本 縦25.0cm 横17.5cm
 天保4年(1833)刊


 一関藩の藩医、建部清庵が飢饉(ききん)への対策をまとめた書です。建部清庵は名医として名高く、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」という俗謡が伝えられています。
 建部家は、初代一関藩主田村建顕に召し抱えられて以来、五代まで清庵を名のっていますが、俗謡に謡われているのは二代めです。医者として優れているだけでなく、救荒書『民間備荒録』『備荒草木図』を著し飢饉に困窮する民を救い、江戸の蘭学者杉田玄白との交流を通じて、大槻玄沢や息子で玄白の養子となった杉田伯元など、蘭学の先駆者をその門下から輩出しています。
 江戸時代には、凶作により食糧不足におちいる飢饉に度々見まわれ、東北地方では、宝暦・天明・天保期の飢饉が三大飢饉として語り継がれています。『民間備荒録』には、宝暦の飢饉の様子が次のように記されています。
 宝暦5年(1755)、東北地方は大変な長雨に見舞われました。一関でも旧暦の5月中旬から異常な低温となり8月まで雨が降り続き、初冬を思わせるような寒さで、例年ならば猛暑の頃でも綿入れを着るありさまでした。そのため、稲は生育せず、穂は出たものの実らずに枯れてしまい、凶作となり、翌年にかけて、食料が不足し餓死者も出るという大飢饉となりました。一関藩では、藩の籾蔵を開いて飢えた人々の救済に当たったので領民が餓死することは無かったといわれていますが、凶作がひどかった地方から首や足が痩せ細り、口がとがって頬がこけてあたかも鳥のようになった人々があたかも蟻のように群がってきました。
 建部清庵は、この状況を目の当たりにして、医師としてできることをしようと決意し、その年の12月に『民間備荒録』を書上げました。これを受け取った藩の家老が目を通し早速写本を村々に配ったといいます。
 『民間備荒録』は、上下二巻からなり、凶作に対する備えと、飢饉の際におきる様々な問題への対処法を説いています。特に、食糧を求めて野草を口にし食中毒のため命を縮める人の多いことを憂い、草木の正しい食べ方の解説に最大の重点をおいています。草木85種一つ一つに、性、味と毒の有無、調理法、解毒法を記し、医学的効用にまでふれています。その上、食糧不足に陥る飢饉の年の冬に食べるべきものから春夏のものへと順に述べ、方言名も付け加えて、飢えた人がすぐに役立てられるようにと心をくだいています。同じような配慮から、文字の読めない庶民にも一見してわかるようにと植物図を入れた『備荒草木図』を作成しています。
 宝暦5年から16年後、明和8年(1771)に江戸の版元から出版されました。飢饉の対策を解いた救荒書としては、日本で初めての刊行となります。その後も頻発する飢饉に対応して版を重ね、全国的に流布しています。また、天保期の飢饉に際しては、多くの救荒書が出版されますが、それらのほとんどが『民間備荒録』を参考引用しています。
 『民間備荒録』では、飢饉への備えとして、当時一関近村で植えていた荏胡麻(えごま)に代えて、菜種を栽培することを推奨しています。現在、一関市の市の花は、菜の花。この花の栽培も清庵の言葉に始まったといえるのです。

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