館蔵品

備荒草木図びこうそうもくず

『備荒草木図』
『備荒草木図』
『備荒草木図』 接続草(すぎな)
『備荒草木図』
接続草(すぎな)

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 建部清庵著
 板本 縦26.20cm 横18.5cm
 天保4年(1833)刊 


 一関藩の藩医、建部清庵が食用となる山野の植物をまとめた書です。建部清庵は名医として名高く、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」という俗謡が伝えられています。
 建部家は、初代一関藩主田村建顕に召し抱えられて以来五代まで清庵を名のっていますが、俗謡に謡われているのは二代めです。医者として優れているだけでなく、救荒書『民間備荒録』『備荒草木図』を著し飢饉に困窮する民を救い、江戸の蘭学者杉田玄白との交流を通じて、大槻玄沢や息子で玄白の養子となった杉田伯元など、蘭学の先駆者をその門下から輩出しています。

 この本は上下2冊に分かれ、104種の植物の図と、それを食用とする際の調理法や注意点などが紹介されています。
 宝暦5年(1755)は大飢饉となった年で、建部清庵は、その惨状を憂い救荒書の先駆けである『民間備荒録』を著しました。翌年は一転して天候もよく平年を上回る作柄となったようです。しかし、清庵は、前年の苦しみを忘れさろうとし、ましてや記録を残して後の世代に伝えようとしない人々の様子を嘆き、将来また飢饉が発生したなら、再び同じ苦しみを繰り返すことになるだろうと憂えています。そこで、宝暦の飢饉の時に、飢えた人たちが食べ、かつ害のなかった草木類について調べ、それらを記録して世間に広め、万人に一人も餓死などすることがないようにとしようと決意し、古老を尋ねたり、弟子たちに栽培や採集を命じたり、同じ陸奥国の江刺郡岩谷堂村の遠藤志峯から『荒歳録』という書物とともに草木を送ってもらうなど多くの助言を得、資料を集めました。一関藩の画工北郷子明に植物図を書いてもらい、漢名、和名を載せて『備荒草木図』を作り上げます。
 明和8年(1771)に草稿ができていましたが、出版には至らず、清庵の息子で杉田玄白の婿養子となった杉田伯元(建部由甫)が校訂をしています。校訂作業にあたっては、植物名については、義弟杉田立卿に手伝わせて、小野蘭山などの本草学者から教えを受け、植物図の一部は石川大浪や宇田川榕庵らに書き直してもらうなど、大槻玄沢や杉田玄白をめぐる江戸の蘭学者の人脈を駆使し当代一流の学者や画家たちの協力を得て行っています。
 結局、出版されたのは、明和8年から約60年を経て、建部清庵、大槻玄沢、そして杉田伯元も亡くなった後の、天保4年(1833)の飢饉の時で、杉田家の塾「天真楼」から世に送り出されました。
 写真頁は「接続草(すぎな)」の部分です。つくしは、いちはやく春の到来を告げるものとして、今も食卓にのぼることがありますが、ここでの主役はすぎなで、「茎と葉、ともによくゆでて、水に浸し、米や麦に混ぜてかて飯にするとよい。」とあり、続いてつくしは、「ゆでてから塩やみそで味付けして食べるとよい。」と書かれています。
 飢饉に直面した農民にとって、厳しく長い冬を乗り越えて口にしたすぎなの味は、ほろ苦く、それでも春の希望を感じるものであったかと思われます。

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