晩年に描いたふるさとの風景 佐藤醇吉 「岩手興田 蓬来山」

「岩手興田 蓬来山」

明治時代から昭和にかけて、数多くの標本画や植物画を描いた洋画家佐藤醇吉(雅号磐村)が晩年に描いたと見られる作品です。
醇吉は、明治9(1876)年、東磐井郡沖田村(現大東町沖田)に生まれました。沖田尋常小学校、千厩高等小学校を卒業後、岩手師範学校に入学しましたが、絵の道へ進みたいと強く願い、中退。しばらくの間、代用教員として天狗田小学校に勤めた後に上京し、洋画家 松岡寿の画塾で学びます。やがて東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学し、明治33(1900)年に卒業。35(1902)年から6年間、東京帝国大学理学部植物学教室に雇員として勤めました。その後、朝鮮総督府の嘱託として、人類学者で考古学者でもある鳥居龍蔵の朝鮮半島調査に同行したり、後に東京美術学校校長を務めることとなる洋画家 和田英作と共に植物図集『群芳図譜』を刊行したりします。昭和3(1928)年からは宮内省生物学研究室に嘱託として勤め、植物写生などに従事しました。
長く東京で活躍した醇吉は、昭和10年代後半から20年ぐらいの間に帰郷し、ふるさとやその近隣の風景を描くなどしました。特に、猊鼻渓は気に入った場所で、いくつもの作品に描いたことが知られています。また、バラの花も好んで描き、評判だったと伝えられています。
写真は、そのころの作品と見られます。江刺と大東町鳥海の境にある山、「蓬来山」がB4判ほどの木の板に描かれていて、板の裏には鉛筆で「岩手興田 蓬来山」と記されています。
最晩年を迎えるころには亡妻の郷里 宮城県登米郡登米町に暮らす娘のもとに移って、フランスの画家 コローの伝記を翻訳する毎日を送り、昭和33(1958)年、登米で没しました。81歳でした。
惜しいことに、醇吉の作品の大半は戦災により失われており、経歴や作品にも不明な点が少なくありませんが、衆議院に残された議長「島田三郎」らの肖像、国立科学博物館蔵の博物図、大正14(1925)年の「藤原清衡公八百年御遠忌」のための歴史画などの現存が確認されています。
明治時代の美術史を研究する上で、今後さらに注目を浴びる画家となることでしょう。

(広報いちのせき 平成21年8月1日号)