第一特集 あの日から1年 367日目の空 1
日本大震災。
あの日から1年がたった。
被災地の復興はもとより、
古里の未来を希望あるものにするために
私たちは何を考え、何をすればいいのか。
被災者の心に寄り添うカフェ
3.11の後、東京都東久留米市に救援本部を置き活動しているクラッシュジャパン(ジョナサン・ウイルソン代表理事)。
全国にベースキャンプと呼ばれる活動拠点が5カ所ある。
市内千厩の一関ベースキャンプもその一つだ。
4人ほどのメンバーが常駐して世界各地から来るボランティアを受け入れ、活動を展開。
2011年9月までは沿岸被災地で、泥かきやがれき撤去などを行ってきた。
10月からは復興支援と被災者の心のケアに焦点を移し、仮設住宅などで無料のカフェ「リッキーカフェ」を運営している。
一関ベースキャンプのリーダーを務めるマイケルセン・ポールさん(28)。
「被災して7カ月。身も心も疲れた頃に寒い冬に入った。外国人の自分たちから見て、日本の自殺率の高さには驚くばかり。被災した人の心のケアに何ができるか。自分たちが少しでも役に立てれば」と復興への思いを語る。
気仙沼市から折壁仮設住宅に避難している小野寺良子さん(85)もリッキーカフェの常連。
「津波で何もかも流されてしまった。残ったのは命だけ。今でもがれきの映像を見ると涙が出る」と話す。
だからこそここでの語らいは楽しい。
「話しができることが何よりうれしい」と良子さん。
被災者の心に寄り添うリッキーカフェは、今日もたくさんの人に元気を届けている。
3月中旬、折壁の仮設住宅で開店した「リッキーカフェ」。
寄り添い、語らい、笑いあう。
穏やかで、とても幸せな時間
風化させるな 震災の記録と記憶
3.11、日本は変わった
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。
日本を、人々の心のありようを変える悲劇が起きた。
観測史上最大級のマグニチュード9.0を記録した巨大地震と大津波。
人間の想定を超越した自然災害に、最悪の社会災害が重なった。
未曽有の大震災は、東日本の大地に、日本人の心に、大きな爪痕と消せない記憶を刻みつけた。
相次ぐ震度6弱
市内は、本震で震度6弱の揺れを観測。
人的被害は、重傷二人と軽傷32人にとどまった(沿岸部で津波により死亡した市民は11人、行方不明は二人)。
強い揺れでライフラインは寸断。
市民生活に大きな影響を及ぼした。
停電が回復するまでに5日、断水が解消されるまでには実に13日を要した。
市は発生当日の午後3時、災害対策本部を設置。
情報収集に努めるとともに被災者への対応、給水活動や避難所の開設などにあたった。
道路被害も多発。
補給が途絶えたガソリン、灯油をはじめとした燃料が極端に不足。
市は14日「燃料不足に関する非常事態」を宣言。
公用車の燃料を配給制にするとともに、全市に燃料の節約を呼び掛けた。
昼夜を問わず発生する余震。
市民生活がようやく落ち着きを取り戻しつつあった4月7日午後11時32分、再び震度6弱の揺れが襲った。
この余震により沢配水池が倒壊。
市内は再び停電・断水に見舞われた。
相次ぐ強い揺れで多数の住家被害が発生。
全壊57棟、半壊694棟、一部損壊は3301棟を数えた。
見えない恐怖「放射線」
巨大地震と大津波といった自然災害により引き起こされた東京電力福島第1原子力発電所事故。
これまで日本人が経験した中で最悪の社会災害だ。
発生直後の災害対策が落ち着きを取り戻した頃から、震災の復旧・復興に向けた本市の取り組みの中で最も大きな比重を占めているのが環境放射能への対応である。
6月―。
市は、学校・公共施設などでの放射線量の測定を開始。
測定結果に応じた低減対策を実施した。
10月―。
放射線対策に各分野で連携して迅速に対応しようと災害対策本部内に「放射線対策部会」を設置した。
12月―。
食品に含まれる放射性物質を測定する機器を新たに購入した。
学校給食・食材や産直で販売される野菜、井戸水・沢水の測定も行っている。
また、隣接する平泉町、奥州市、宮城県栗原市とともに放射性物質汚染対処特別措置法に基づく「汚染状況重点調査地域」の指定を受け、除染計画を策定している。
市は今日も、「見えない恐怖」から安心を取り戻すため、全力を挙げている。
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1.最大36カ所に置かれた給水所。 2.燃料不足による給油待ちの行列。 3.停電のため信号も消えた交差点 5.地域の協力を得て行った自治集会所での放射性物質の低減対策作業 |
証言 「ここから始める。新しい道」
仕込みのため向かっていた登米市で激しい揺れに襲われた。
気仙沼市の自宅に帰るか南三陸町の店に向かうか迷ったが、家族が心配になり気仙沼に向かう。
しかし、道路は寸断されていた。
花泉、川崎を経由して帰るがパニック状態。
気仙沼へたどり着いたのは夜。
高台にある自宅は津波の被害を逃れ、家族は全員無事。
胸をなでおろした。
店が心配だったが、地震後の片付けで動けなかった。
数日後、店に行こうしたが、道路は寸断され、ガソリンはない。
毎日が辛かった。
結局、店に行けたのは3月下旬。
発生から2週間が過ぎていた。
南三陸町に着いた。
店は跡形もなく流されていた。
残っていたのは基礎だけ。
テレビや新聞で状況を把握していたから動揺はしなかった。
ただ、これからどうしていいのかわからず、途方に暮れた。
4月末、無気力なまま、叔父に付き合い一関に向かう。
道の駅かわさき敷地内の水楽館に立ち寄った。
テナントがひとつ空いていた。
厨房がある。
設備もそろっている。
家族に反対されたが、川崎の人たちの優しさや温かい人情が自分の背中を押した。
ここに店を出すことを決めた。
理想は元の場所に戻ること。
だが、厳しい現実を受け入れるしかない。
この場所に巡り会えたのも運命だと思う。
ここ(川崎)から新しい道を歩んでいきたい。
道の駅かわさきの敷地内にあるふれあいほっと館に「がっつり亭」はある |
厨房で腕をふるう誠さん |
profile
がっつり亭店主 佐藤誠さん
Sato Makoto さとう・まこと
1967年宮城県気仙沼市生まれ。
南三陸町志津川で飲食店を経営していたが、震災で店舗を失う。
11年6月、川崎町の「道の駅かわさき」内に「がっつり亭」オープン。
妻と二人暮らし。
川崎町薄衣在住、44歳。
広報いちのせき「I-style」4月1日号