action 動きだそう。

あの時、人々はどのように「行動」したのだろうか。
そして、どのような今を過ごしているのだろうか。
当時と現在の姿を知り、そこから希望の光を見出していく。

person1 小山均さん 千厩仮設住宅親睦会代表小山均さん

少しずつ、少しずつゆっくりと「前へ」
「古里」も「こころ」も希望の明日へ一歩ずつ

千厩仮設住宅親睦会の代表小山均(ひとし)さん(65)=宮城県気仙沼市出身=。
二男の結婚式を翌日に控えた矢先、東日本大震災は起きた。

発生直後、同市本浜町の自宅にいた均さんは、美容院から帰った妻はつゑさん(63)、ペットの猫、近くに住む義母梅原ハマヨさん(86)を車に乗せて高台に避難。
何度も押し寄せ、容赦なく街を飲み込んでいく大津波に呆然と立ちすくんだ。
海岸に近い均さんの住まいは跡形も無く流されたが、義母ハマヨさんの住まいは無事だった。
義母宅で7カ月を過した後、2011年10月23日から均さんとはつゑさんは仮設住宅に入居、千厩での暮らしが始まった。

構造、設備が充実している千厩仮設住宅は、地元気仙沼の仮設住宅より居心地がよく「一晩眠っただけで気持ちがほっとした」と振り返る。
12年10月から同親睦会代表となり、集会室で卓球、カラオケや手芸を企画したり、畑で野菜を育てたりしながら、入居者同士のコミュニケーションを深める毎日。
さらに、ボランティア団体、サポートセンターなどとの連絡調整にも奔走している。

仮設住宅にはさまざまな形で支援の手が差し伸べられている。
地元の野菜が贈られたり、いも煮や豚汁を振る舞われたり、一緒に料理をしたり、イベントに案内されたりと「一関市の皆さんは温かく、本当に良くしてもらっている。つらい記憶を忘れさせてくれる」と感謝する。

いつまでも被災者のままではいられない―

気持ちにも少しずつ変化が出てきた。
被災した人の心の傷の大きさ、深さ、立ち直りの度合いは千差万別。
全てを一様に考えることはできない。
それでも「一歩ずつ、自立の道を歩むことが、支援してくれた皆さんへの恩返しになる」と考えるようになった。
「被災者と支援者ではなく、普段着の付き合いで共に生きていきたい」とも。

「あの日」から2年。
つらい気持ちが拭い去っても、「震災の記憶を風化させてはならない、伝えていかなければならない。それが道標になる」と復興を願ってやまない。

「もう一度、気仙沼で生きる」

その日を信じ、「今」を懸命に生きていく。

1千厩高生と入居者が一緒に行った花苗の植付作業2集会所に飾られた入居者の手芸作品
3前へ進もうと語る小山さん夫妻
1_千厩高生と入居者が一緒に行った花苗の植付作業
2_集会所に飾られた入居者の手芸作品
3_前へ進もうと語る小山さん夫妻

person2 西城政巳さん イザカヤ東京食堂300自慢の料理に腕を振るう政巳さん

残った看板を花泉に掲げ
自慢の料理で恩返し

励ましのはがきや手紙など
励ましのはがきや手紙など

宮城県気仙沼市で妻のり子さん(54)と飲食店を営んでいた西城政巳(まさみ)さん(59)。
津波で自宅と店を失った。

再出発の場所を求めて各地を回る中、縁あって花泉町に。
住まいと店舗を確保した。
2011年6月23日、同町涌津に新生「イザカヤ東京食堂300」(さんじゅうまる)を開店。
津波にさらわれることなく残った看板を新店舗に掲げた。

看板を見上げ、素直に「うれしい」と喜ぶ政巳さん。
のり子さんも「温かく迎えてくれた皆さんに応えたい」と大好きなこの仕事に打ち込んでいる。

心に負った傷は、まだ癒えない。
だが、「いつまでもくよくよしてはいられない。みんなに元気を与える商売をしたい」と笑う。

なじみの客も増えた。
また、気仙沼時代の常連客もやってくる。
励ましのはがきや手紙などもたくさん寄せられ、人と人、心と心のつながりを実感している。

「料理は生きがい」と言い切る政巳さん。
「『おいしい』と言ってもらえる料理を出して、お客さんを笑顔にしたい。お客さんの笑顔が自分たちの元気の源だから」と再起の地花泉で腕を振るう。
それが、応援してくれる人たちへの「恩返しになる」とも。

政巳さんとのり子さんは、たくさんの感謝を込めた自慢の創作料理で、温かく、優しい絆を育んでいく。

2津波に耐えた看板3花泉の地で再起を誓う西城さん夫妻
1_自慢の料理に腕を振るう政巳さん
2_津波に耐えた看板
3_花泉の地で再起を誓う西城さん夫妻 

person3 岩渕謙一さん シイタケ農家岩渕謙一さん

「負けてたまるか」
産地の意地で逆境に立ち向かう

東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能汚染の影響で、市内のシイタケ農家は大きな痛手を負った。
その多くが生産を休止・断念していく中、大東町曽慶の岩渕謙一(けんいち)さん(64)は再開を目指している。

2012年4月、原子力災害対策本部長(内閣総理大臣)から本市産乾シイタケの出荷制限指示が、同年7月には汚染した全てのほだ木(原木にキノコの菌を植えたもの)の使用制限指示が出された。
使えないほだ木を前に「かわいそう」と心を痛める。

出荷制限は現在も続いている。
損害賠償は先行き不透明で、原木の安定供給も難しい。
風評被害を受けた生産者の意欲や誇りも失われつつある。
拭い去るには時間がかかる。
シイタケ農家は今が正念場だ。

もう一度、品質のいいものを作り続けるしかない―

謙一さんは、山を除染したり、不検出の原木を取り寄せたりして、どういう状況・条件で生産すれば基準値以下のシイタケを収穫できるのか、試験栽培に取り組むことを決めた。

「自分が前例を作り、生産を休止した人や断念した人の背中を押したい。みんなの意欲を取り戻したい」

何もしなければ何も変わらない。
考えて、動いて、挑戦して、再生の糸口は見えてくる。

「負けてたまるか」

産地の意地で風評被害に立ち向かう。

再開を目指す謙一さん
再開を目指す謙一さん

person4 津田幸男さん オカリナ教育作家 手づくりオカリナ支援の会津田幸男さん

大阪から単身東北へ
手作りの音色が心を癒やす

オカリナ

千厩町千厩の津田幸男(ゆきお)さん(63)は大阪の出身。
2012年末、オカリナ片手に単身東北入りし、被災者の心のケアをサポートしている。
小学校教員を退職後、関西の大学で講師を務めるなど、長年、図工・美術教育に携わってきた。

ところが、11年に糖尿病をわずらい、仕事をリタイア。
生きがいを失い、人との交わりを拒む日々が続いた。
そんなある日、震災で家族を亡くした女児のドキュメンタリーを見た。

この生活から再起できるのなら、オカリナをつくって届けたい―

脱皮を決意する瞬間だった。
それから1年間、オカリナづくりに没頭、納得のいく音色を生み出した。

被災地の支援活動とはいえ、個人の活動だ。
歓迎されないことも少なくない。
だが、岩手は違った。
一関は違った。
宿を提供してくれたり、交流活動を支援してくれたり、幸男さんの活動を心から応援してくれた。

「困っている人を放っておけないのが岩手人。それが、復興にも生かされている」

誰かのために頑張ることの素晴らしさを岩手で知った。
「オカリナで、感動を伝えたい」と一関で決意した。

幸男さんは、オカリナづくりや演奏体験を通して、子供たちの心をケアしている。

「心に響くものを届けたい」

活動は始まったばかりだ。

person5 細川雅彦さん 防災教育を進める小学校長 室根西小学校細川雅彦さん

苦難を乗り越えてきた姿を「生き抜く力」を育む力に

本年度「いわて復興教育推進校」に指定された市立室根西小学校(細川雅彦校長、児童100人)。
綿密なプランニングの下、「生き抜く力」を育むために教員、児童、保護者が一体となって「復興教育」に取り組んだ。

あらゆる状況を想定した防災訓練や復興教育を実施。
被害を自分の目で見て、津波に襲われた人が実際どうやって生き抜いたかを知った。
壊滅的な被害から復活を遂げた水産業者から、苦難を乗り越える力とは何かを学んだ。
昨年10月には、「気仙沼市唐桑町の畠山重篤(しげあつ)さんの葛藤と古里を思う心情を題材にした創作劇」と「藤原清衡が戦乱の東北に自立と平和をもたらした歴史を震災復興に重ねた創作劇」を「復興劇」として披露した。

細川校長は「子供たちは、仮設住宅の人たちと交流したり、被災地を取材して、見たり、聞いたり、活動したりしながら『生き抜く力』について考え、『助け合うこと』の素晴らしさを知った」と振り返る。
つらく悲しい面だけがクローズアップされがちな震災だが、「そこには『希望』や人間が持つ『可能性』の素晴らしさなど『復興の光』が必ずあることを学んでほしかった。
子供たちは、それをつかんでくれた」と達成感に満ちた表情を見せる。

同校は引き続き、▼被災地の訪問▼仮設住宅との交流▼防災訓練の実施▼道徳や総合的な学習・教科学習での学び―を徹底し、未来の担い手を育んでいく。

1防災学習の様子2津波で打ち上げられた巻き網漁船「第18共徳丸」の前で黙祷する室根西小児童ら
1_防災学習の様子
2_津波で打ち上げられた巻き網漁船「第18共徳丸」の前で黙祷する室根西小児童ら

person6 塩竃一常さん ラジオパーソナリティー 一関コミュニティFM塩竃一常さん

普段のつながりが災害時に電波という名の命綱に

ラジオは、停電時でも電池があれば機能する。
東日本大震災では、テレビや電話などあらゆる情報インフラが遮断された中、災害発生直後から住民に必要な情報を発信。
住民から「地域になくてはならないメディア」として認知されている。

東日本大震災と岩手・宮城内陸地震、二つの大地震で被災した一関市は防災ラジオの役割も果たす「コミュニティFMの早期開設が必要」と判断。
計画を前倒しして、昨年4月29日に一関コミュニティFM「FMあすも」(村上耕一社長)を開局した。
「DAILY I― Style(デイリーアイスタイル)」や「GETKING!!(ゲッキン)」でおなじみの塩竃一常(いちじょうさん)(34)は、あすものパーソナリティー。
二つの震災時には、おとなりの奥州エフエムに務めていた。

奥州エフエムは、地震発生直後から8人のスタッフがフル稼働、番組編成を切り替えて災害情報を伝えた。
テレビも電話も使えない中で、リスナーから寄せられる情報を住民目線で発信。
どの地域がどんな状況なのかを伝えたほか、安否確認の伝言板機能も果たすなど、24時間体制で放送した。

「電気も電話も使えない不安の中、リスナーの皆さんが情報提供してくれました。発生の一報から復旧情報まで寄せられた情報は数千件。その多さに、みんなで危機を乗り越えようとしている力を感じました。一人ではなく一つだって思いました。災害情報はもちろん、道路、お店、病院、学校や幼稚園の情報なども繰り返し伝えました」と振り返る。

20歳の時、たまたま訪れた大阪府守口市のFM局で「退職者がいる。明日から来て」と誘われ、ラジオの世界へ飛び込んだ。
同局は、阪神・淡路大震災の発生時に、近畿地方で唯一開局していたコミュニティFM局。
そこで人と人とのつながりの大切さや地域を元気にするラジオの底力を学んだ。
一常さんには「地元の人間が伝えてこそ、リスナーも励まされる」という信念がある。
古里一関にエフエムが開局すると聞き、「それなら自分が」と決意した。
「知っている顔、知っている声、それだけで普段は親近感がわきます。災害時には安心感を得られます」。

震災を経験し、あらためてラジオの力を感じたという。

「電波を通して人や地域をつなぐことが僕たちの使命。普段のつながりが、災害時の命綱になります。広い一関も、足元からつないでいけば、きっと一つになれるはず。その役割をあすもが果たしたい」と力を込める。

電波には無限の可能性がある―。
守口時代からずっと信じてきた。
まだまだ先が見えない震災復興にも「きっと貢献できるはず」と前を見る。

「10年かかるか20年かかるかわからないけど、元気な古里を取り戻すまで、一人一人に笑顔が戻るその日まで、電波を通じて支えていきたい。やさしくてあったかい、みんなの心に寄り添う存在でありたいです」

臨時災害FM局

東日本大震災では、岩手、宮城、福島、茨城の各県で開局。
それぞれ地域に密着した災害情報を放送した。最初に開局したのが奥州(最大出力150W)で、震災発生翌日の12日に電話で申請し、即日免許が発行され、周波数が割り当てられた。

あの日以来、

「頑張ろう」とか「一つになろう」というメッセージや広告を目にする機会が増えた。
被災地だけでなく日本中でだ。
苦しい時やつらい時に、助けてくれるのは人。
人と人とのつながりこそ大切だからだろう。

さまざまな立場の人を取材した。
共通していたことは、今を一生懸命生きていること。
未来を信じて前に進んでいること。
心を寄り添って共に歩いていること。
その人といると、やさしい気持ちになれる。
元気がわいてくる。
一人じゃない、そう思えてくる。

物資の配布やがれきの処理で大量の人員を必要とした震災直後から、心のケア、自立支援、そして再建支援へと被災地が求める支援のニーズは変わってきている。
これまで以上に被災者の声に耳を傾け、被災地が必要とする支援を届けたい。

市は3.11を「となりきんじょ防災会議の日」に制定した。
心に深い傷を負った一方で、決して忘れてはならないことがあるからだ。
必ず伝えなければならないことがあるからだ。
大切な人の未来に自分がいるために、自分の未来に大切な人がいるために、家庭、職場、地域で話し合おう。
その先に光は見えてくる。

広報いちのせき「I-Style」 平成25年4月1日号