千葉 胤秀 (ちば たねひで) (1775~1849)

 安永4年(1775)今の花泉町清水原で生まれ、寛政13年(1801)25歳で老松字佐野屋敷喜惣兵衛(専太郎)の婿養子となりました。幼い頃から数学を好み、一関藩家老梶山主水次俊に学び、文政元年(1818)江戸に出て関流正統六伝長谷川寛の門人となりました。日ならずして見題、隠題の免許2巻を与えられ、その後更に研鑽を深め文政12年(1829)には極伝をも許されるに至りました。文政11年(1828)一関藩主田村邦顕公より数術抜群の故をもって士籍に取り立てられ算術師範役となり一関に移り住み、文政13年(1830)「算法新書」を著しました。弘化3年(1846)には藩主からの御下賜金と門人の寄附金とをもって算学道場を建築し数千に及ぶ門弟の教育に当り、一層和算の興隆につとめた人物です。

千葉 理安 (ちば りあん) (1782~1820)

 老松の観音堂屋敷というところで、数代にわたり肝入りをつとめた後、一関藩士となった家柄に生まれた理安は、幼くして馬術、武術、兵法を学び、新陰流免許皆伝の腕前でしたが、17歳で医学を志しました。佐藤理穏(現花泉町金沢)について医学を学ぶ傍ら、百般の書を読破して生来の英質を磨き、21歳で生家に「施無畏堂(せむいどう)」を開設し、その塾で患者の医療を行うとともに、入門を乞う弟子達の教育にあたりました。32歳のとき、あらためて和歌山の華岡青州の学塾「春林軒」に入塾し修業を続け、郷里への帰途、さらに京都で針灸術と眼科も学んでいます。再開した「施無畏堂」では名声雷のごとしといわれ、医師として、また塾頭として世評の高い人でしたが、惜しいかな文政3年(1820)38歳の若さでなくなりました。