永澤 滋 (ながさわ しげし) (1904~1989)

 昭和4年(1929)日本大学医学部を卒業後、同大学に勤務、昭和11年(1936)医学博士となり、昭和15年(1940)永澤病院を開院しました。その後、帝国女子医専(現東京女子医大)の講師、助教授を経て、昭和25年(1950)日本大学医学部教授および医学部付属板橋・駿河台病院長、医学部長、学長(昭和42年、1967)を経て、昭和47年(1972)理事長に就任。日本学術会議会員、大学設置審議会専門委員、医療審議会会長代理、全国医学部長、病院長会会長、国際医療団理事長を歴任し、医学、医療の向上と発展のため尽力しました。これらの功績により昭和50年(1975)には勲一等瑞宝章を受章。昭和49年(1974)千厩町の名誉町民になりました。昭和51年(1976)永澤氏の寄付により千厩町の教育文化事業団が設立されました。

熊谷 登久平 (くまがい とくへい) (1901~1968)

 千厩の豪商「日野屋」の長男として生まれ、父に進学を反対されたが中央大学商学科に入学、さらに洋画壇の巨匠藤島武二に師事し洋画を学びました。家業は継がず、独立美術協会の中堅画家として、大胆な色遣いながらほのぼのとした明るく叙情的な作品を多く描きました。独立美術協会の前身である1930年協会から参加し、個性派ぞろいの協会の中で高い評価を受けている岩手を代表する画家です。制作しながら、上京した千厩の後輩らの面倒もよく見るなど豪放で頼られる存在であった彼は、放浪の画家長谷川利行(1891~1940)や詩人・日本画家矢野文夫らと親交を深めました。

白石 隆一 (しらいし りゅういち) (1904~1985)

 父の勤務先であった岩手県黒沢尻町(現北上市)で生まれましたが、実家は千厩町千厩にあります。川端画学校洋画科を卒業し、東京美術学校研究生として近代洋画家の重鎮岡田三郎助、藤島武二に師事しました。昭和20年(1945)東京大空襲に遭い、それまでの作品と家をすべて焼失してしまい、妻子とともに千厩町に41歳で帰郷しました。後半生は千厩の地を制作の拠点として、町民に親しまれ尊敬されました。東京自由が丘にあったアトリエでは風景画を中心にした作品が多かったが、郷里千厩に戻ってからは、三陸で水揚げされた新鮮な魚を題材にしたものへと変化しました。写実、印象の美を追究した「魚の画家」として有名で、正確なデッサンと光影が絶妙です。