青柳 文蔵 (あおやぎ ぶんぞう) (1761~1839)

 松川で医業を営む家の3男として宝暦11年(1761)に生まれました。幼い頃から才気煥発で、18歳の時、江戸に出て苦労しながら勉強を続け、公事師(現在の弁護士)になって活躍しました。天保元年(1830)、若いときに勉強しようにも書物がなくて苦労したことを思い、蔵書2万余巻と文庫建設の資金として千両を仙台藩に献上しました。翌年、仙台に「青柳文庫」が完成。青柳文庫は、誰でも利用できる公共図書館の始まりとされています。同時に、郷里松川に籾4千石を収容できる倉庫も建設しました。この倉庫は「青柳倉」と呼ばれ、天保の飢饉のおり、人々を飢餓から救ったことから文蔵は救荒の大恩人と呼ばれています。

佐藤 衡(猊厳) (さとう こう(げいがん)) (1862~1941)

 文久2年(1862)長坂に生まれ、漢学・詩文に長じた父の指導で幼い頃から経書を学びました。盛岡の師範学校を1年で卒業し、24歳で宮城県鮎川小学校校長に抜擢されます。明治42年(1909)には長坂村長に、大正4年(1915)には郡議会議員になりました。不撓不屈の熱血漢である反面、情に厚く上下の隔たりなく大勢と親交しました。また、中央詩壇にも名を知られました。
 数々の功績の中でも、特に猊鼻渓の開拓は第一に挙げられ、当時、ほとんど知られていなかった猊鼻渓を優れた漢詩をもって世に紹介するなど、そのために投じた私財は、計り知れないものだったといいます。洞潭(どうたん)・猊厳父子の努力のかいがあって、大正14年(1925)、猊鼻渓は国の名勝指定を受けました。

鈴木 東蔵 (すずき とうぞう) (1891~1961)

 明治24年(1891)、長坂に生まれました。小学校高等科卒業後、13年間にわたって村役場勤め、その傍ら「農村救済の理論と実際」「理想郷の創造」「地方自治の創造」「地方自治の文化的改造」などを出版しました。その後、退職し大正14年(1925)に大船渡線が開通すると同時に、松川に東北砕石工場を設立し、無尽蔵と言われる石灰岩の開発に乗り出しました。宮沢賢治を技師として工場に迎え入れ、提携して業績の発展に努力したことは有名です。
 昭和14年(1939)に退社した後、田河津夏山に砥石工場を設立。戦後は大理石の採掘を開始し、苦労して業績が軌道に乗りかけた昭和36年(1961)に71歳の生涯を閉じました。村会議員、農業会理事、農地委員、農民組合長など各種の役職も歴任し、地域の発展に貢献しました。

佐藤 金治郎 (さとう きんじろう) (1874~1955)

 明治7年(1874)、田河津に生まれました。天性の美声の持ち主で想像力豊かな人でした。幼年時から竹沢の芸能一家千葉幸蔵宅に出入りし、神楽の本場である西磐井の神楽組を訪れて教えを請うなど、各所の神楽の長所を取り入れて独自の舞い方を創り上げ、演義(せりふ)や節回しも改良して一派をつくりあげました。
 明治33年(1900)、26歳の若さで大東町曽慶に金治郎流神楽を伝え、その後、千厩熊田倉、大東町天狗田などにも伝授し、東山町のみならず東磐井郡の神楽を語るうえにおいて欠かせない功労者です。また、彫刻にも優れ、多数の面を残しており、優雅な表情をたたえているのが特徴とされています。昭和30年(1955)、82歳で逝去しました。

鈴木 翠村 (すずき すいそん) (1874~1947)

 明治7年(1874)松川に生まれ、一市町(ひといちまち)の新田円蔵に育てられました。6歳の時、前沢の画人・文渓が訪れた際、鶴を描いてほめられたといいます。長じて気仙沼の叔父、鈴木酉蔵に引き取られ、南宗派の山水画家・狩野三岳に入門。21歳で画壇で重きをなしていた松本楓湖の門をたたき、人物花鳥画を学びました。24歳で帰郷し、鈴木酉蔵の婿養子になって砂糖問屋を継ぎましたが、本家の事業失敗や大火に遭い上京。画家としての地位も確立されつつあるころ、大震災で家財、作品を失い、50歳で帰郷。円熟した腕は、日本名画推薦会から「最優秀なる技倆(ぎりょう)ある画伯」の特選状と「実力画士」の称号を受け、日本画審査会からは金牌、昭和5年(1930)には「全国名画家選抜名鑑」に全国200名の画家の一人として名を連ねています。