芦 東山 (あし とうざん) (1696年~1776年)

 我が国の刑法界の先駆者として活躍しました。元禄9年(1696年)渋民に生まれ、幼少から勉学熱心で、仙台藩の儒学者田辺希賢の門下生になり、儒学の道をたどります。しかし、学問所では身分の隔てがないという東山の主張が問題となり43歳の時に幽閉されてしまいます。24年の幽閉生活の間、恩師「室鳩巣」から託された刑律の研究に心血を注ぎ、全18巻からなる「無刑録」を書き上げました。赦免され故郷渋民に帰った時には既に66歳でしたが、亡くなる81歳まで東北各地を歩き、学問を教え続けました。明治政府は、ヨーロッパの刑法学者よりもっと古い時代に、日本の学者が優れた刑法の考えを示していたことに感嘆し、「無刑録」を日本の刑法をつくる際の参考にしました。

大原 呑響 (おおはら どんきょう) (1767年~1810年)

 熊谷八右衛門の次男として大原字一六に生まれ、自らを大原と称しました。幼少の頃から才気群を抜き、若くして山鹿流の兵法にも通じた儒者となり、さらに経世の才に富み盛んに国政を論ずる人物になりました。松前藩公に仕え、北辺の防備の急務を説きました。時局についての識見は卓絶しており、幕府から危険人物として迫害を受けることになりました。その後、経世的大抱負を抱きながら政治の世界を離れて、ひたすら花鳥、風月を愛し、絵画の道に励みました。

小山 竹斎 (おやま ちくさい) (1831年~1890年)

 沖田八日町検断の家に生まれ兵蔵と言いました。3歳の時から読書、書道を学んだがその進歩は著しく、特に書道は並ぶ者がありませんでした。5歳の時、12代藩主伊達龍山公(齊邦)の御前揮毫の栄に浴し、数々のご褒美と「東山」の号を賜りました。12歳の時、東山を改め竹斎としました。その後もますます書道に精進し、仙台藩校養賢堂の助教にもなりました。

小原 磨渓 (おばら まけい)(1830年~1917年)

 大原の医学者でもある亀掛川子貫の孫で、一関から江戸に出て医学や漢学を学びました。その後、摺沢の一関藩士小原家の養子となり医院を開業し多くの人を苦痛から救いました。また、教育熱心で愛日学舎という私塾を開き、門下生は男女合わせて200名以上いたと言われています。

佐藤 醇吉 (さとう じゅんきち) (1876年~1953年)

 沖田の佐藤忠五郎の長男として生まれた醇吉は、幼いときから絵が好きで絵ばかり描いていました。その後、岩手師範学校から東京美術学校に入学し、洋画界の先駆者浅井忠や洋画の大家松岡寿に師事し、純写実主義の作風を創りあげていきました。神宮徴古館・神宮農業館にある「平城京」は傑作と称されています。

芦 文十郎 (あし ぶんじゅうろう) (1812年~1885年)

 渋民生まれ。技術屋でもあった父、祖父や家に来たたくさんの客から日本流製鉄や蒸気機関のことを聞いたりしながら、自分で勉強して知識を得た努力家でした。文久3年(1863年)、文久山で近代製鉄に成功し、釜石鉱山についで日本で2番目の高炉による鉄の取り出しをやり遂げました。