館蔵品

和蘭医事問答おらんだいじもんどう

和蘭医事問答

和蘭医事問答

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 建部清庵・杉田玄白著
 板本 縦26.4cm 横17.8cm
 寛政7年(1795)刊


 一関藩医である建部清庵は、江戸での医学の動向に大きな関心をよせていました。明和7年(1770)閏6月に、常々抱いていたオランダ医学への疑問と自らの意見をまとめて、江戸へ遊学する門人衣関甫軒(きぬどめほけん)に託しました。疑問に答えてくれる江戸の蘭学者に手渡すようにという宛名のない手紙でした。適当な人物を探しあてるのは難しく、2年半後の安永2年(1773)正月、ようやく杉田玄白の元に届けられました。
 折から『解体新書』刊行の準備にあたっていた玄白は、その手紙を読み、清庵の先見性に驚きながらも我らの志は一つと感嘆し、早速疑問への回答を書き返信としました。以来2人の文通が続くことになります。清庵は、この時62歳、自身では江戸に行くことはできなかったのですが、かわって息子たちや門弟である大槻玄沢らが玄白の元に入門し、オランダ医学、蘭学の発展を担っていくことになります。玄沢らの活躍を可能としたのが、この清庵と玄沢の奇跡的ともいえる出会いなのです。
 二人の手紙は、オランダ医学の核心に触れ蘭学を学ぶものへの指針となる事から、大槻玄沢、杉田伯元(清庵の息子、玄白の婿養子となった)らが、最初の二往復の書簡を収録し『和蘭医事問答』と名付け寛政7年(1795)に出版しました。明和7年(1770)閏6月の清庵の手紙、これに対する安永2年(1773)1月の玄白、安永2年4月清庵と同年10月玄白の手紙からなります。

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