館蔵品

千葉胤秀画像(複製)

千葉胤秀画像(複製)
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 入間川南渓(いるまがわなんけい)画
 絹本著色
 縦.89cm 横41cm
 江戸時代後期


 千葉胤秀は安永4(1775)年生まれ、清水村(現一関市花泉町)の農家に生まれました。通称を雄七といい、この絵の上部に貼られた書「流峯」は胤秀の号です。数学が好きで、一関藩の家老も勤めた関流(せきりゅう)四伝藤田貞資(ふじたさだすけ)の門人梶山次俊に学んでいます。やがて、周辺の村々に教えに行くようになり、門人は三千人ともいわれるほどでした。
 43歳の時、数学の出張教授をしていた先で、数学を教えながら全国を旅していた山口和(かず)と出会います。2人は数学談議に花を咲かせたことでしょう。この出会いが胤秀を和算家として大きく飛躍させることになるのです。これからほどなくして、胤秀は江戸に出て、山口が所属している長谷川寛(ひろし)の数学道場に入門します。入門後まもなく、初級免許状である見題と、中級免許状である伏題が授与されています。
 数学道場からは、広く利用された和算の独習書『算法新書』を発行しました。また、胤秀の影響によって、多くの門人が育ち、一関周辺は屈指の和算隆盛の地となりました。胤秀は、教育者としても優秀であったのです。 
 この画像は、3台の書箱の前に正座する胤秀を描いています。脇には、天体観測用の天球儀が置かれ、和算家らしい姿を伝えています。左脇には扇子と脇差、千葉家の家紋「月星」のついた裃を着ています。農民であった胤秀が、和算の功績を認められて士分にとりたてられ、裃の着用を許されるのは、44・5歳の時、およそ10年後には、藩の算術師範役を命ぜられています。この時代、和算の力だけでこのような栄誉を受けるのは珍しいことでした。7代藩主の田村邦顕(くにあき)は、胤秀を寝所に呼び、自ら作った問題を解かせています。藩主の和算に寄せる関心、理解の深さが、胤秀の活躍とこの地方における和算の普及を支えていたという一面もあります。

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