館蔵品

社友列名しゃゆうれつめい 4種

社友列名 4種
社友列名
明治12年社友列名記載の門人たち >>
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 数学道場刊
 板本 
  天保14年(1843)刊
  嘉永4年 (1851)刊 縦18.0cm 横8.6cm
  安政4年(1857)刊 縦13.0cm 横8.5cm
  明治12年(1879)刊 縦14.0cm 横12.0cm


 関流の数学者長谷川寛(ひろし)(1782-1838)は、江戸に和算の塾「数学道場」を開き、数学道場で多くの数学者を養成し、また多くの数学書を刊行しました。長谷川は、初め藤次郎といい、後に善左衛門と改め、号は西、晩年には極翁と称しています。天保9年(1838)、57歳で没していますが、養子の長谷川弘(ひろむ)が道場を引き継ぎ、さらに評判が高まったといいます。その道場の門人名簿が『社友列名』で、一関市博物館では現在のところ、この4種類を確認しています。それぞれの年次までで、最も高位の別伝から、伏題、隠題、見題の各ランク別に在所と氏名を示しています。嘉永4年からは、最後に量地術(測量の術)の項も設けています。門人は、東北地方から九州まで全国にわたっています。
 千葉胤秀が出会った山口和も数学道場に所属しており、その勧めで胤秀もこの数学道場に入門しています。胤秀は、最も古い天保14年の段階で既に最高位の別伝の部に列しています。胤秀の四男、千葉善左衛門胤英の場合は、天保14年にはまだ記載がありませんが、嘉永4年で伏題、安政4年で別伝に列せられており、明治14年には、別伝と同時に「斉長 小野友五郎」に続く「助教」3名のうちの1名として名を連ねています。胤英は、文政4年(1821)年生まれなので、その学業の進み具合を知ることができます。
 当然、この地方の胤秀門下の者も多く名を連ねています。また、長谷川寛の後を継いだ長谷川弘は、初め佐藤秋三郎篤信といい、佐沼(現宮城県南方村)の農家の生まれで、千葉胤秀にその才能を見出され、長谷川寛の養子となった人です。

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