館蔵品

骨寺村所出物日記ほねてらむらしょしゅつもつにっき

骨寺邑所出物日記
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 複製 原資料:平泉・中尊寺蔵 重要文化財
 縦28.0cm 横70.5cm
 文保2年(1318)


 骨寺村は現在の一関市本寺地区にあたります。周囲を山々と切り立った渓谷とに囲まれた小さな盆地が当時の村の主要部分を構成していました。
 天治3年(1126)平泉藤原氏の初代清衡発願による紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)の完成を機に、清衡から中尊寺経蔵別当職の荘園として認められたのがこの骨寺村でした。
 それから約100年後藤原氏に替わってこの地方を統治していた葛西氏の時代、文保3年に村から経蔵別当に上納される年貢を書き上げた文書がこの史料です。
 内容に目を向けると、13人の名前が記されていて、それぞれにさし出す品や銭が割り当てられています。例えば「四郎五郎田屋敷分」として所当籾(本年具)、口物(付加米)、節料(節句、節日の祝いに用いる飲食物)、小成物(果物など収穫物)という物納が行われ、「佐藤五作田分」では二貫文の銭納が行われています。彼らは「在家」と呼ばれる農民で、屋敷と付属耕地を一体として年貢負担の対象とされていました。この骨寺村では上納方法が異なる「田屋敷分」在家五家と「作田分」在家八家が存在したことが判ります。当時の村の様子や作物、貨幣流通の度合いなど様々な事象を知る手がかりとして貴重です。 さらに、同時代頃に描かれた「骨寺村古絵図」2枚とこの史料を比較する時、より強い光芒をはなって中世の農村世界をかいま見せてくれるでしょう。

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