館蔵品

陸奥国骨寺村絵図むつのくにほねでらむらえず

陸奥国骨寺村絵図(簡易絵図)

陸奥国骨寺村絵図(詳細絵図)

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 複製 原資料:平泉・中尊寺蔵 重要文化財
 簡略絵図 縦85.0cm 横56.2cm
 詳細絵図 縦85.2cm 横57.8cm
 鎌倉時代後期〜南北朝時代
 

 藤原清衡発願による紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)書写を契機として、骨寺村は中尊寺経蔵別当領(ちゅうそんじきょうぞうべっとうりょう)となり、約300年にわたって経蔵を支え続けました。その間に藤原氏が滅亡し、源頼朝によって新たな郡地頭となった葛西氏との間に堺相論がたびたび起こりました。骨寺村を描いた2葉の絵図は、そうした相論の中で中尊寺方の証拠品として使われました。
 一見簡素ながら、雄渾に描かれた山々、そして人びとが祈りを捧げる堂社や神田などの情報が豊富な簡略絵図(仏神絵図)と、村の様子をありのままの如くに描写された詳細絵図(在家絵図)です。簡略絵図は鎌倉時代後期、詳細絵図は鎌倉時代末期から南北朝期頃に描かれたと考えられています。
 絵図から読み取れる情報は豊富にあります。詳細絵図は頼朝が定めた村の四至、東鎰懸(かぎかけ)、西山王窟(さんのういわや)、南磐井川(いわいがわ)、北峰山堂(みねやまどう)から馬坂(まさか)新道を強調するように描ききっていて、堺の内側には寺領、外側には郡方(葛西)の文字が見えます。相論における中尊寺側の主張をはっきりと打ち出しています。また、村人の信仰する神や仏、湧水・沢水を利用する原初的な田、土木技術によって取水する田、労働力の投入を必要とした12枚の田、公事・年貢を納める在家、主要道の新規開削、ほか様々です。14世紀前後の骨寺村の生活空間を活写しています。
 荘園絵図は東北では3葉しか現存せず、そのうち2葉がこの骨寺村絵図であり、古代・中世の東北の生活形態を知る上でもほかに得難い貴重な資料と言えます。

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