館蔵品

田村宗良自筆和歌たむらむねよしじひつわか

田村宗良自筆和歌
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 紙本著色
 江戸時代前期(17世紀後半)の作


 日本の四季を象徴する花鳥風月が連続して描かれ、それぞれの画題にちなんだ和歌が一首ずつ添えられています。画は狩野昌雲(かのうしょううん)の作、和歌は田村宗良(むねよし)の自作・自筆です。
 巻頭には竹と鶯(うぐいす)の画に「声なくばいかでしらまし竹の葉にまがふ色なる春の鶯」の句が添えられています。全体で十六首を収め、巻子(かんす)(巻物)に仕立てられ、田村家では藩祖・宗良の遺品として大切に保管されてきました。
 宗良は、寛永14(1637)年、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の3男として仙台で生まれました。初め、仙台藩の重臣・鈴木家を継ぎ志田郡大崎を領有しましたが、承応2(1653)年に田村家を再興して栗原郡岩ケ崎に移りました。その後、万治3(1660)年に、仙台藩4代藩主・伊達亀千代の後見となって、名取郡岩沼に移り3万石の内分分家(ないぶんぶんけ)大名となりました。
 こうして宗良はかの「伊達騒動(寛文事件)」の渦中に巻き込まれることとなったのです。
 幼少の藩主・亀千代の後見として政権を握ったのは、もう一人の後見・伊達兵部宗勝でした。宗勝は政宗の10男で宗良の叔父です。当時、一関で3万石の内分分家大名となっていました。才気煥発で個性の強い宗勝は専権的な政策で重臣達と対立し、藩を二分する政争となりました。幕府は騒動の責任を追及し、宗勝家は断絶となりました。
 この過程で、宗良は指導性を発揮することはできませんでした。その性格は温厚にして体質は病弱、文化人としての資質が勝った人でした。

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