館蔵品

車一関家中絵図いちのせきかちゅうえず

一関家中絵図
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 紙本淡彩
 本紙 縦154.0cm 横336.0cm
 明治時代初期(19世紀後期)の作


 田村家家中、一関藩士の屋敷割(やしきわり)絵図です。新道が造られたり、橋が架け替えられたりしていて、明治初頭の情報によって作成されていますが、ほぼ江戸時代末の状況と置きかえてもよいと思われます。厳密には、城下北の入口に架橋されている磐井橋が従来の土橋から新設の木橋となった、明治3年(1870)からほど遠からぬ時期の姿でしょう。
 絵図中央の山は釣山(つりやま)、西から北へ向かって流れる川は磐井川、東部の細い川は吸川(すいがわ)です。
 釣山下の、堀で囲まれた広い空間は藩主・田村氏居館で、その北側と東側に重臣、中・下級藩士、足軽の順で、同心円上に居住区画が広がっています。
 家中絵図なので、商家を中心とした町人の家は記されておらず空白となっています。それにしても、町の大半は武士階級が占め、城下町の性格がよく出ています。
 城下南の入り口付近、奥州街道沿いには、足軽組屋敷と寺院群が置かれています。北の入口は、磐井川に唯一架橋された橋(現在の磐井橋)です。当時は、磐井川橋あるいは大橋とよばれ、幅3間余(約5.5m)、長さ54間(約97.2m)の土橋でした。
 町の中心を通過する奥州街道の内側(藩主居館側)には五間堀(ごけんぼり)が築かれ、「堀内」の上・中級藩士である「内家中」(うちかちゅう)と「堀外」の下級藩士である外家中(そとかちゅう)とを分ける境界ともなりました。

 道路や各町の構成といった基本的な町並みは、現在も大きく変わっておらず、一関の町は、まさに江戸時代につくられたものであることがわかります。

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