現在の一関市と南町・千代田町・台町と真柴の一部にあたる、旧一関藩領鬼死骸村の絵図です。
仙台藩の北部、現在の宮城県北部や岩手県南部の地域には、元禄年間に仙台藩士の生江助内(なまえすけない)によって作成された村絵図や郡絵図が残っています。仙台藩の支藩である一関藩領でも同様です。この絵図の左下には、元禄年間に作成された絵図が古くなったため、一関藩士佐藤勇右衛門が作り直して藩に提出したものの控えであることが記されています。佐藤勇右衛門は、文化年間に藩領内各村の村絵図を作成しています。それらには、道、川、社寺、屋敷、田畑、堤などが名称とともに絵画的に描かれ、図の周囲に村高、人数、御用林の範囲とその広さが記されており、江戸時代の村の様子を知る貴重なてがかりとなります。
鬼死骸村は、人口400人余り、南北を奥州街道(この図では有壁(ありかべ)海道としている)が貫き、村内で金沢(かざわ)村(現花泉町)に通ずる金沢街道が分岐しています。西側には、芭蕉の通った道とされる迫(はさま)街道が通り、松並木の様子も描かれています。村の北側、一関村に接する街道沿いには、新五十人町があります。ここには、足軽が配置され、城下の守りを固めていました。
村の中央に鹿島神社、その東の水田の中に村名の由来ともいわれる鬼石が示されています。鬼石は、坂上田村麻呂の軍が、討伐した大武丸(おおたけまる)の死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石で、近くにはあばら石もあります。鹿島神社と鬼石、あばら石は今も同じところにあります。そのわずか北に、街道を挟んで一対の黒丸が書いています。これは一里塚を表わしていますが、こちらの方はもはや跡形もありません。
他にも名水や舘跡等々、情報満載の資料です。
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