館蔵品

大槻磐渓の書おおつきばんけいのしょ

大槻磐渓の書

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 二幅対
 慶応4年(1868)6月


 大槻玄沢(おおつきげんたく)の次男で、仙台藩の藩校・養賢堂(ようけんどう)の学頭(校長)を勤めた大槻磐渓の書です。磐渓は仙台藩を代表する儒学者(中国の古典を通じて政治や道徳を研究する学者)でしたが、西洋砲術などを研究し開国論をとなえるなど、開明的な人物でした。
 磐渓は書家としても有名で多くの書を残しましたが、この書は歴史的にも意味を持つ作品となっています。
 「戊辰夏六月」というように、慶応4年(1868)6月に書かれたことが作品中に明記されていますが、この時期は戊辰(ぼしん)戦争(明治維新の際に新しい政治体制のありかたをめぐって戦われた戦争)の戦火が東北地方に移った一大非常時でした。天皇を頂点として専制政府をつくろうとする薩摩藩(現鹿児島県)や長州藩(現山口県)を中心とした明治政府に対し、仙台藩をリーダーに奥羽(現東北地方)・越後(現新潟県)の諸藩が一丸となって対抗(奥羽越列藩同盟)したのでした。磐渓は同盟の思想的指導者として規約の草稿などを作成しました。
 この書には、まさにこの時期の磐渓の決意がこめられています。
 向かって右側の書は「士窮見節義」(士は窮して節義を見(あら)わす)と読み、左側の書は「世乱識忠臣」(世乱れて忠臣を識(し)る)と読みます。それぞれ、「士たるものは逆境にあってこそ人としての正しい道を守り通す」、「世の中が乱れたときになって主君のために働く本当の忠臣は誰かということがわかる」という意味です。磐渓が、戦争にあたって、世の中に訴えたかった一言でしょう。
 さて、戦争では、一関藩は本藩・仙台藩に従って、奥羽越列藩同盟を脱退して明治政府側に立った秋田藩を攻撃しました。慶応4年(1868)8月はじめ須川岳(栗駒山)を越えて侵攻した265名の兵士(軍夫含まず)は、仙北郡刈和野(現秋田県仙北郡西仙北町)の激戦などで奮戦しましたが、仙台藩の降伏により9月下旬一関に帰藩しました。戦死者84名(兵士)を数え、3,000石の減封と藩主の謹慎処分を受けました。

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