文化財探訪

薄衣城跡【川崎地域】

北上川と千厩川の合流点を見下ろす高台にある薄衣城跡。四面が険しい斜面に囲まれています。中世城郭の特徴をよく伝える城館跡

奥州藤原氏が文治5(1189)年源頼朝に滅ぼされた後、この地方を治めた葛西氏は、中世末期には岩手県南から宮城県北の広大な地域に勢力を広げました。川崎地域は葛西氏の重臣・薄衣千葉氏が統治。薄衣城は、天正18(1590)年に葛西氏が奥州仕置きによって滅ぼされるまでの337年間、薄衣支配の拠点となりました。
薄衣城跡は、大きく四つの郭に分かれています。主郭は本丸跡と呼ばれている場所で、標高約78メートルと城跡の最高所。広さは140メートル×60メートルで、北北西―南南東に主軸を持ち、北端は一段低く、主軸方向にやや傾斜しながら20メートル×60メートルの平場となっています。
主郭の西に位置しているのが二の郭。主郭との接続部分に虎口(敵の侵入を防ぐため故意に曲げられた通路)と見られる地形が残り、広さは90メートル×70メートル。西側は急峻な崖となっています。
主郭の南東に位置する三の郭は、北の隅に土手状の高まりがあり、荒神が祭られています。主郭との間は空堀状にくぼんでいます。
四の郭は、従来三の郭の一部として考えられてきた部分。三角形で、三の郭との接続地点に空堀状の遺構があると考えられています。
このように、薄衣城跡は、山城で、平らな山頂部と下に向かい尾根に沿って郭などを形成した中世城郭の特徴をよく伝えています。北上川に接する要害に占地し、県内有数の貴重な城館跡で、平成10年、旧川崎村の史跡に指定されました。
「薄衣城」に関連する文献資料は少なく、沿革をたどることは難しい状況です。「薄衣村史」には、初代千葉胤堅が『建長4(1252)年8月14日奥州の押使となり下向し、陸奥国栗原郡に於いて領地3千余町を給与され、同国磐井郡薄衣荘に居住し、翌建長5(1253)年3月城を築きて葛丸城(のちの薄衣城)と称した』とあります。また、最後の城主、千葉胤次(または胤勝)は、葛西氏没落の後、北上川の中川原で自刃したとあります。
 延宝年間(1673~1681)に仙台藩がまとめた「仙台領古城書上」には、次のように記述されています。
『薄衣村 町 
山 一 薄 衣 城 東西
   二十五間 城主 千葉中務
          南北 十七間
   二の丸   東西 二十九間
          南北 十七間 』
地元の巻畑地区では平成5年「薄衣城址保存会」が組織され、環境整備など保護活動に取り組んでいます。

問い合わせ先
川崎支所教育文化課 TEL 0191-43-4021 

 

(広報いちのせき平成20年5月1日号)